キリスト教思想への招待

2004年3月10日発行
定価3000円(税別)、勁草書房
現在第5刷 (2004年7月5日発行)

 以下の紹介文は、原稿を書き上げた後で、 発行以前に書いた紹介です。
 この頁の後半に、 誤記誤植の修正一覧がのっています (こちらは2004年7月はじめに書いたもの。 すみませんが、 すでにお買い下さった方は、 御覧いただければ幸いです)。
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 『書物としての新約聖書』 (1997年) と、 翻訳ですが 『ウィリアム ・ ティンダル』 (2001年) と、 2冊続けて大部の本を出したので、 たまにはもう少し気軽に読める、 定価もあまり高くない本を出したらどうだ、 と勁草書房の富岡勝さんにすすめられたこともあり、 この夏 (2003年夏) に一気に書き上げました。

 と言っても、急に考えついたわけではなく、この主題で本を作ろうと思って、すでに、十年以上も前から用意していたものを、 この際、 実現することにしただけです。
 内容的には、 十年どころか、 すでに数十年にわたって、 あちこちで講演するたびに語ってきましたし、 大学の授業でも取り上げてきまことです。 部分的には、 雑誌などにものせていますし。

 趣旨
 以前イエスという男について本を書いたので、 今度はキリスト教思想を紹介する本を書こうという次第。
 と言っても、 キリスト教の方は過去二千年にわたって、 世界のさまざまな土地に広まって存在してきたものですから、 これがキリスト教だ、 などという本を書くことはできません。 そういう意味での 「概論」 なんぞ、 書こうと思ったら嘘になるし、 何も知らない人間でないと、 そういう本を書くことはできないでしょう。

 しかし、 キリスト教と称して、 いかにもちゃちな、 ほとんど迷信と申し上げざるをえない事柄に、 むきになってしがみついているキリスト教会が、 アメリカや日本ではやたらと多い昨今、 そういうものにたぶらかされて、 キリスト教二千年が伝えてきた非常にすぐれた諸要素まで見えなくなっては、 もったいないと思います。

 つまり、 この本の目的は、 古代以来、 キリスト教が伝えて来たことの中にはまだまだ学べきことが沢山ある、 それを何とか紹介したい、 ということです。

 第1章 人間は被造物
 人間と、 人間が生かしめられているこの大自然の全体は、 神によって造られた被造物である。 たとえ神なんぞ存在しないとしても、 人間と自然世界が被造物であることに変りはない。 今の世の中は、 そのことを忘れ、 そのことの前に謙虚であることを忘れている。

 第2章 やっぱり隣人愛
 キリスト教は隣人愛の宗教です、 などという能書きは、 かなり偽善の臭いがする。 しかし、 これを偽善だと笑って馬鹿にしているよりは、 ともかくその看板を少しでも実現しようと努力する方が、 はるかにましではなかろうか。 隣人愛は、 単なる個人倫理ではない。 キリスト教ヨーロッパ二千年が、 それを自分たちの社会形成においてどのように実現してきたか。

 第3章 彼らは何から救われたのか
 キリスト教の 「救い」 と言っても、 現代の信者たちは、 それぞれが勝手な思い入れをしているだけで、 古代のキリスト教徒が何から救われたのか、 という事実を、 ちっとも見ようとしていない。 彼らはずっと 「無神論者」 と呼ばれていた。 つまり彼らは、 宗教から救われた、 宗教から解放されたのである。 だから、 諸宗教にしがみつこうとしていた人々から、 無神論者と呼ばれ、 弾圧されたのである。

 第4章 終れない終末論
 頭の上から大量殺戮兵器である爆弾を大量に落とされて、 大量に殺されたアフガン人、 イラク人の姿に、 我々は、 どうにもならないほど、 心を痛めるけれども、 しかもどうにもならない。 これは、 限りないほどの大量な怨念を生み出した。 このままでいいのだろうか。 あの、 大量殺戮をこととする連中が、 その世界支配が、 いつまでものうのうとのさばっていて、 神によって罰せられずにいてもよいのだろうか。
 ヨハネ黙示録は、 このことを赤裸々に書いた書物である。 彼の終末論は、 簡単には終るわけにはいかなかった。 世界がこのまま終ってよいわけがないからである。

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 誤記誤植の訂正
(A) 第1刷ないし第2刷をお持ちの方に (第3刷以降では修正されています)
 (1) 113頁終りから7行目  辻邦夫 → 辻邦生
 (2) 226頁終りから3行目、2行目、 227頁1行目、5行目  性信 → 唯円
 (3) 268頁終りから9行目  それに対して「民族」と訳した語は複数形で、 → 「民族」と訳した語もここでは単数形だが、 普通は複数形で

(B) 補足 (第3刷後書きに追記)
 165頁終りから8行目、「hospesは、他人を客として迎える家の主人」 と記しましたが、 ラテン語を多少御存じの方は、 おや、 hospes は 「客」 という意味ではなかったかな、とおっしゃるかもしれません。 古代ラテン語では両方の意味があります。 形容詞 hospitalis も同様に両者の意味。 しかし名詞の hospitium はどちらかというと 「客を迎える家の主人」 の意味から派生している (客を迎える場所)。 念のため追記しておきます。

(C) 未訂正 (第5刷でも未訂正。 まだいつになるかわかりませんが、 第6刷が出る時に、 そこで訂正ないし追記を入れることにします)。
 217頁2行目以下 ルターが ephapax という語 (一回限り) を ein fuer allemal と訳した、 という件 (ue は u-Umlaut です)。
 読者のYさんの御指摘により、 見直してみたら、 ルター自身は zu einem Mal と訳しています。 不注意につき、 お詫びして訂正いたします。 現代版ルターでは ein fuer allemal となっていますが、 現代版のいつの版からそうなったか (1892, 1912, 1956, 1984 のいずれか)、 急には調べがつかないので、 いずれ何かの機会にチェックいたします。 チューリッヒ聖書は1931年版ですでにそうなっていますが、 これまたそれ以前のいつからそうなったかは、 まだ調べがつきません。 従って、 ドイツ語の ein fuer allemal が先か、 英語の once for all ないしフランス語の une fois pour toutes が先かもわかりません。 不確かな知識で申し訳ありませんが、 いずれ調べて公表します。

 お礼と多少の言い訳
(A)
(1) 「辻邦夫」 は、 出した後すぐに自分でも気がついていたのですが、 かなり多くの方々から、 出版後直ちに御指摘をいただきました。 御指摘下さった方にお礼申し上げます。 第2刷は第1刷の発行前にすでに印刷にかかっていたので、 訂正が間に合わず、 第3刷から訂正されています。

(2) 「唯円」 と 「性信」 を混同したのは、 まことにお恥ずかしい間違いです。 これまた出版後かなり早い時期に3人の読者の方から御指摘をいただきました。 うちお二人は、 まさか私がこういうヘマをやらかすとはお思いにならなかったのでしょうか、 歎異抄の編者について新説を打ち出すのなら、 ちゃんと論拠を上げるべきだ、 という御指摘でした。 どうもすみません。 単なるヘマです。
  性信は、 親鸞が関東を去って京都で隠居した後、 関東の信者集団の中で指導的立場にあった人物の一人。 鎌倉幕府の弾圧の矢面に立ったり、 いろいろ苦労しながら、 関東で真宗の信仰を確立しようと努力した人。 親鸞との間で直接間接に手紙のやりとりほかがあって、 残っている親鸞の手紙からして、 私にはどうもこの時期の親鸞自身よりは性信さんの方が思想的に徹底しているように見えます。 そしてその姿勢、 つまり性信坊ほかを中心として関東の信者たちが一所懸命考えた姿勢が、 歎異抄にかいま見られる弟子たちの姿にも表現されている。 歎異抄の鋭さは性信さんたちのすぐれた視点が濃厚に反映している……。 と、 いろいろ考えているうちに、 自分の頭の中で短絡して、 歎異抄の編者をあわてて 「性信」 と書いてしまったのでした。 まことに申し訳ありません。
  唯円は性信たちよりはだいぶ若い人ですが、 関東の信者の一人ですから、 性信たちの思いを吸収しつつ歎異抄を書いたのだろうと思われます。

(3) 「民族」 (ethonos) についての間違いを指摘してくださったのは、 Xさん (こういうところで御本人に断りなくお名前を公表するのも失礼ですから、 Xさん、 Yさん……にしておきます)。 これも慌てて書いて失敗した例 (このくらい、 もう一度ちょっとテクストに目を走らせれば、 すぐに気がつくのに、 手を抜いて、 何とも恐縮です)。 すなわち、 直前の 「民」 の語 (laos) は単数形。 続く ethnos も単数形なのだが、 この語は普通は複数形で 「諸民族」 (ユダヤ人以外) を指す。 ほかの著者の場合なら、 これは単数だから 「諸民族」 の意味ではあるまい、 ということになるが、 黙示録の著者は周知のようにギリシャ語文法が滅茶苦茶で、 この種の単数複数の区別をほとんど無視しているから、 この場合も単数だけれども複数と同じ意味だろう、 ということ。 それを、 慌てて、 この場合も複数形だと書いてしまった。 どうもすみません。 かつ、 御指摘下さったXさんに感謝。

(C) ルターのドイツ語については、 この部分は出先で書いていて、 現代版ルターだけしかチェックできず、 そこに ein fuer allemal とあるのを、 そのまま 「ルターの訳」 として書いてしまい、 いずれ家に帰ったら、 最終原稿を出版社に渡す前に、 ルター自身の 1545年の版を調べようと思っていたのに、 調べ忘れてそのまま発行してしまいました。 どうも、 これまた不注意につき、 まことに申し訳ありません。 一個所に定住せずあちらこちら動きまわり、 出先で原稿を書くことが多く、 とりあえず書いておいて、 後で自分の書斎のあるところにもどったらチェックしよう、 というような生活をしておりますと、 こういうヘマを犯しがちです。 前にも何度かこの種の間違いをやっています。 どうもすみません。 当分の間は一個所に定住するのは無理ですから、 何とかこの種の間違いを減らす方法を考えないといけませんが、 今回の件については心からお詫び申し上げます。 これまた、 見つけてくださったYさんに感謝。

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