今 日 の 一 言 (既発表分)


第10回 後期高齢者何とか。あるニュースの扱い
2008年6月4日

 今回は二つ思いついたことを記します。相互に関係はありません。

 その1 あるニュースの扱い
 四川省の大地震に日本から緊急の救援隊が派遣された。 その隊長さんの帰国直後のインタヴュー。
 「生存者の居る可能性のある場所に行かせてもらったら生存者を救出できたかもしれなかったのに、 とか、 あるいは、もう少し滞在を延長して活動できればよかったのに、 とかいった声があるのは承知しています。
 しかし、我々としては、達成感があります。」

 この最後の一言はずっしりと重い。
 確かに、できればこういうこともしたかった、という 「声」 があったのは事実であるにせよ、 自分たちは精一杯活動したのだ、という誇りが、誇りというかまさに達成感が、表現されていた。 困難なお仕事を御苦労様でした。

 ところが、テレビ局のアナウンサーがその前と後とに同じコメントのせりふを二度くり返した。
 「援助隊の隊長さんは、生存者の居る可能性のある場所に行かせてもらえなかったこと、また、自分たちの希望よりも早く帰国させられたことについて、悔しさをにじませた」、 と。

 両者の発言は、まるで違うではないか。 隊長さんは、 我々以外の人たちはそのようにおっしゃるけれども、 我々自身は精一杯やったという達成感がある、 とおっしゃったのだ。
 それが、テレビ局の 「解説」 風の言い変えでは、やりたいことができなかった、残念だ、 ということになる。
 もちろん、 御本人がおっしゃっていることが御本人の意見であって、 アナウンサーさんのつけ加えは、 まさに改竄的引用である。

 この件に限らず、 近頃のマスコミは (だけでなく、マスコミの後押しをする右翼的世論は)、 ともかく何でもかんでも中国は悪い、という色彩で塗たくりすぎている。
 この件でも、我々日本人は良いことをしてやろうとしたのに、あの悪い中国政府はそれを妨げて、やらせようとしなかった、という色彩に塗りたくってしまった。

 もちろん中国政府にもいろいろ悪いところはある。
 しかし、たとえば昨今、日本のマスコミが、中国政府のチベットでの弾圧に関して大騒ぎしたのと、 果して同じ程度に、アメリカ軍によるイラクでの桁違いの大量虐殺について大騒ぎなさっただろうか。 だいぶ後になってからいろいろ批判的な記事、 放送がなされるようになったものの、 最初のうちは、 やたらとアメリカさんにしっぽをふった報道、報道というよりも 「解説」 と称する世論操作ばかりやっていたではないか。

 ところが、こと中国となると、何でもかんでも、中国政府はけしからん、という報道にしてしまう。
 上記の例など、マスコミの歪曲の例としても、いささかひどすぎないか。

 中国に対するこの種の歪曲した悪口の言い方、マスコミの口をそろえての偏見ぶりは、あの時代によく似ている。
 かつて、中国大陸に日本軍が侵略を開始した、あの時代の世論やマスコミの論調と。


 その2 後期高齢者医療制度をめぐる議論について
 以下に記すことの最初の3点は、いわば私の腹立ちまぎれの八つ当たりだから、適当に読み過ごしていただくとして、最後に指摘する点は、重大である。

 「後期高齢者」 という呼び方は失礼だ、 などという議論があった。 誤魔化しなさんな。
 失礼なのはこの制度そのものであって、 我々は別に 「後期高齢者」 と呼ばれようと、 もっと正直に単に 「年寄り」 と呼ばれようと、 そんなことはまったくかまわない。 正直に、 「年寄り医療制度」 と呼べばいいではないか。 日本の役人は (その尻馬に乗ってマスコミの方々も)、どうでもいい名前のつけ方についてはわあわあ言うくせに、肝心の中身については、その陰に隠れて、こっそりと誤魔化してしまう。
 この制度が4月にはじまろうとした時には、マスコミの皆さんは、 まだまだ、 中身抜きで、 「後期高齢者」 などという呼び方は失礼だ、という点ばかりを騒いでおいでになった。 まさに、どうでもいい点を騒ぐことによって、肝心の問題を見ないようにする、 誤魔化しのテクニックである。

 しかしそんなことより、 どうも気に入らないのは、 「後期高齢者医療制度」 なるものについて、 高齢者の医療費を支えているのは若い人たちだ、 と言われ続けている点である。 若い人たちがその4割を支出し、 高齢者自身はその1割しか払っていない、という説明の仕方である。 これって、ひどい嘘ではないのか。 何でもかんでも、 厚労省の役人の言い方をそのまま宣伝するなよ。

 よく考えて御覧なさいな。 我々自身は若い頃はどうしていたかを。 その頃 (と言っても、つい先日までのことだ)、 どれだけの医療保険費を支払っていたかを。 そして、それが果して我々その時期の若い者たちのみの医療費として使われていたのかどうかを。
 実際の話、私個人は、自分が支払った医療保険費、 私にしてみれば非常に高額な医療保険費の大部分は、 私自身に還元してもらっていない。 うち、 私と私の家族の医療に必要な医療費を差し引いて、 残りのかなりな高額の金額が、 「彼ら」 の手元に残ったはずである。 それも、毎月毎月のことだから、生涯の分を累積すれば、極めて高額である。
 念のために申し添えるが、私の給料から天引きされた金額だけではない。 雇用主がそれにつけ加えて支払った金額もある。 これは、名目上は雇用主が支払ったことになっているが、実際上は、私自身の労働に対して雇用主が支払うべきものであるから、実は我々自身の労働に対する対価である。 短く言えば、本当は我々自身の給料であるはずのものを、そういう名目で健康保険の方にまわしていただけである。
 だから、 直接の天引き分と、 雇用主が支払ったという名目の分を合算すれば、 ずい分と大変な金額が私個人の労働対価の中から健康保険の方にまわされていたのである。
 そして、私自身 (と私の家族) は、幸いにして健康に恵まれていたから、 上記のうち、 雇用主が支払ったという名目の部分は無視するとして、 私の給料から天引きされた金額だけを考えても、 それに相当する医療費など、 とても使ってはいない。 そうすると、それに更に加えて、 雇用主が支払ったという名目の分がある。 その合計金額は大変なものである。
 その金、いったいどこに行ってしまったのだ?

 そして、大多数の人たちは、多かれ少なかれ私と同じようなことであったはずである。
 私自身は、幸いにして自分はかなり健康に恵まれているから、その分、若くても病気がちな人、傷害をかかえた人、そして、医療費がかかるご老人たちのために、 私の支払う健康保険費が使われれば、 それでまことに結構なことだと思っていた。 そもそも健康保険というのは、 そういう趣旨のものである。

 ところが、今になって、 我々が生涯かかって支払ってきた大金についてはまったく口をつぐんで、 お前たち老人の医療費はやたらと高くつくから、 若い人たちに支えてもらっているのだ、 有難いと思え。 そして、有難いと思ったら、 もう少し自分の保険料負担を多くしろ、 などとおっしゃる。 ふざけんじゃないよ。 それなら、 我々が生涯かかって支払ってきたあの大金を返してくれた上で、そうおっしゃいな。

 それにもかかわらず、 この国のご老人たちは皆さん人がいいから、 政府、霞ヶ関、及びマスコミの連中の口車にのせられて、何だか自分が若い人たちに迷惑をかけて申し訳ない、 なんぞという思いをいだいていらっしゃる。 そして、その思いにつけこんで、 「彼ら」 は、 「後期高齢者」 からもっと金を巻き上げようとしている。

 そうじゃないよ。 俺たちは今頃になってこの社会に突然 「年寄り」 として登場したわけではない。 若い頃からずっとここに生きていた。 そして、若い頃からずっと、 60歳代半ばにいたるまでの 「若い」 時期にずっと、およそ50年近くも、 その時その時の御老人たちの医療費を支え続けてきたんだよ。 それが今になって、 そのことをすっかり無視して、 お前たちは自分では金を払わずに若い人たちの世話になっている、 なんぞと恩に着せられたんじゃ、 たまったものじゃない。 話は順送り、 責任は順送り、 というものだ。

 まあ確かに、 医療保険の制度というのは複雑なもので、 国民健康保険と組合健保では制度が異なるから、 そう簡単にあっちとこっちをつなげて議論するわけにはいかない、 とおっしゃるかもしれない。 しかし、それならますます、 俺たちが支払いつづけてきたあの金はどこに行ってしまったのだ?
 そして、そういう理屈を持ち出すのなら、 まさに、国民健保と組合健保の間のそういった関係、その他もろもろの関係を整えるのが政治の仕事ではないか。 それに現に、組合健保の方から今でも相当金額の上納金があっちにまわっているんだろ!

 全国のご老人たちよ、もっと胸を張ろうではないか。 俺たちが身を粉にして、 50年近くも働き続けてきて、 この国の経済を支え続けたきたんだぞ、 と。 この国の健康保険制度も、俺たちが支えてきたんだよ、と。

 気に入らない第3の点。
 この制度、 御存じコイズミが 「痛みを分かちあう」 とか称して、 2年前に国会で強行採決したものである。
 言っておくが、 これは、 「すぐれた改革」 をなそうとしたコイズミ某が、 たまに一つ間違えた失策、 などというものではない。 まさにこれこそが、「小泉改革」 なるものの基本の姿だったのだ。 金持はますます優遇し、金のない者たちからはますます搾り取ろうという政策を、 あらゆる領域にわたって 「改革」 などとと騒ぎ立てて実現しようとしていたのだ。

 気に入らないのは、 たとえばこの 「後期高齢者医療制度」 にしたところで、 2年前の国会強行採決の時点から、 いやその前にすでにこの法案が作られはじめた時期から、 その問題点は誰の眼にもすぐにわかる程度にはっきりしていた。 それを、今頃になって正義の味方ヅラをして、マスコミの皆さんは、 「後期高齢者医療制度」 はけしからん、などと合唱なさっている。 お前ら、なあ、それを2年前に言うのがお前らの仕事だったんだよ。

 しかし、気に入らないのは、マスコミだけでなく、今時同じ点をあげて政府はけしからんなどとおっしゃっている大多数の国民の皆さんの動向もある。 いやまあ、確かに皆さんのおっしゃる通り。 しかし、それなら、あなた達は何であの時にコイズミを支持して、 衆議院の議席の三分の二以上もあいつらに独占させるようなことをなさったのだ。 問題は2年前にはじまったのわけではない。 すでにコイズミが登場した最初の時点から、 あいつが 「改革、改革」 と騒ぎはじめていた時点から、 こうなることは鮮明にわかっていたことではないか。 それにもかかわらず、 皆さん、 なんであいつを支持なさった?
 つまり、今回の件は、 選挙であいつを支持した国民に、 その当然の結論が襲いかかってきただけのことだ。
 いやまあ確かに、今からでは過去のことは取り返しがつかない。 しかし、ここで反省しておかなければ、いつまでも同じことのくり返しではないか。
 今回の 「後期高齢者何とか」 に腹を立てるのなら、 それは、自分たち自身の選挙行動が生み出したものだ、 とよく認識し、 反省する必要がある。
 そしてここでも、マスコミのおためごかしの宣伝に惑わされないようにしようではないか。
 この間も、あるテレビのニュース・キャスターさんがのたまうた。 コイズミ某の 「改革」 は正しかったが、 「後期高齢者医療制度」 は間違っていた、ですと。 誤魔化しなさんな。

 さて、重要な最後の点。
 この件をめぐる議論の中で、 最も奇妙なのは、 皆さん厚労省の勝手な計算をそのまま根拠にして議論していらっしゃることである。
 医療費、殊に老人医療費が非常に高くついて大変だ! だから、国民にもっと負担してもわらないといけない! なんぞとおっしゃっておいでである。 それって、本当か?
 だいたい、今時、霞ヶ関の役人が計算したとなったら、その計算の根拠はかなりうさんくさいと思うのが常識だろうに。 それを、この件に関してだけは、 皆さん彼らの計算をそのままうのみにして、 老人医療にかかる費用は莫大であって、 今でもいくらいくらかかっており、 今後はますます巨大に増大する、 これを何とかしないといけない……。 待て、待て。 その数字、本当に信用できるのか?
 ともかくさ、役人が計算したら、 まずその数字は信用しない、 という習性をつけないと、 この世の中、 良くはならないよ。

 たとえば道路、 たとえばガソリンの暫定税率、 などについては、 さすがに、 野党の皆さんもマスコミの皆さんも、なかなかよくおやりになった。 霞ヶ関の役人たちが、 そういった名目でどれだけ大量の無駄遣いをしているかを、あばいて下さった。 しかし、 それとて実は多分氷山の一角で、 隠れた部分にはまだまだ大量の無駄遣いが存在しているだろう。

 それなら、 何故、 医療費についても、同じ疑いを持たないのだ?
 本当に老人医療にそれだけの莫大な費用がかかるのか?

 確かにわかっていることだけでも、一つある。 それも巨大な金額である。
 今時の老人医療では (老人医療だけでなく、すべての医療がそうだが、特に老人医療では)、 あまりに大量に、 必要もない医薬品の処方がなされてる、 という事実は、 誰もが知っていることではないか。
 その点だけでも、 医療費は大幅に減らせるはずだ。
 いつぞやあるテレビがやっていたある老人の病気の話では、 あちこちの医者や病院から与えられた薬のうち、8割は必要のないものだった、 というレポートをしていた。 この種のレポートは時々報道されている。
 我々自身の日常の経験からしても、8割とはいかないまでも、 本質的にはみな同じことである。

 わが同僚の御老人の皆さんよ。 皆さんはよく御存じではないか。 御自分が医者から与えられる薬のうち、かなりな分量は、不必要なものだ、ということを。

 私は、そういう処方をするお医者さんの批判をしたいわけではない。 いや、それもよろしくないが、彼らは、そうしなければ医院の経営ができないから、そうしているだけのことなのだ。
 ある意味では、話は簡単である。 医者の医療行為、診察行為に対して支払われるべき報酬を、医療単価を、もっとずっと高くすればよろしい。 そうすれば医者たちは、 患者に不要な薬を多く飲ませなくても、 十分な収入が得られる。
 その上ではじめて、 不必要な薬を処方する医者たちを、十分に見張って矯正すればよろしいではないか。 その上ではじめて、 徹底した医薬分業を実現すればいいではないか。 現在のような名ばかりの 「医薬分業」 ではなくて。
 そうすれば、医者たちも、 本当は良心のうずきを感じながら、 患者たちに無用の薬を処方するやましさから解放されて、ほっとなさることだろう。

 なぜ霞ヶ関の医療政策は、不必要な薬の大量処方をやめさせる方向で働かないのか。 答ははっきりしている。 相も変わらず、厚労省の役人どもと、製薬会社がつるんでいるからだ。 あらゆる薬害の温床となっているこのけしからんつるみあいは (これは、本質的には、汚職どころかすでに殺人的犯罪になっている)、 しかし薬害だけでなく、 大多数の、一見有益な、ないし少なくとも無害な、もっとはるかに大量の薬品にもかかわっている。 薬害を生じる薬品は、 全体から見れば、 比率は非常に少ない。 薬害を生じない薬品の大量な分量こそ、 彼らの儲けの基本なのだ。
 だから、厚労省の役人たちは、 自分たちの天下りの場所でもある製薬会社の儲けを維持し、 ますます増大させるために、 医者が不必要な薬を大量に処方する現状には手をつけようとしないのだ。 そこに手をつけて医薬品の消費量が激減すれば、 彼らの儲けが激減するのがわかっているからだ。

 我々素人にもすぐに見えるだけでも、 こんなものである。
 マスコミの皆さんよ、知ったような顔をして、 「後期高齢者医療制度」 の悪口をおっしゃる前に、 あなた方が信用しておいでの厚労省の役人たちの計算の根拠を洗い直す作業をやってごらんなさいな。 老人医療費は莫大な金がかかる、などという霞ヶ関の宣伝を右から左に流さないで、その莫大な費用の中身を徹底的に洗ってごらんなさいな。
 いわゆる天下り問題だけでも、上記の製薬会社の件だけでなく、 医療保険そのものに関係する部分だけでも、 洗えばいくらでも出て来るだろ。 ほかにも、何せ霞ヶ関の奴どものやっていること、 無駄遣いはいくらでも発覚するだろう。

 だいたい、今時、霞ヶ関発表の数字をそのまま右から左に流して、老人医療は莫大な金がかかります、 その費用をどうしましょうか、などという報道をいい気になってやっているようでは、マスコミは霞ヶ関のたいこもちだと言われてもしょうがないだろう。

 いや確かに、 現代医療はその急速な発達の度合いからしても、 ずい分と費用がかかる。 しかし、本当にかかる費用を言い訳に利用して、 かける必要のない費用を大量に上乗せするのがあの連中の毎度の手段ではないか。
 厚労省の行政は、 道路行政であれだけの滅茶苦茶な無駄遣いをやっている国交省と、 一つ穴のむじななんだぜ。

第9回 福知山線の事故、人間の基本感覚
2007年4月30日

 福知山線の事故からもう2年もたつ。
 実は私は、2年前のあの日、たまたま、その列車の30分弱前に、まったく同じ快速電車で、同じ場所を同じ方向で通過している。もしもあと20数分家を出るのが遅かったら、と思うと、今でもぞっとする。

 私と逆の運命の人もおいでになる。 いつもは30分ほど早く家を出るのに、あの日に限って30分遅く家を出たばかりに、あの電車に乗り合わせてしまった、という。 何と言ったら良いのか。
 私でさえ、あの電車で亡くなられた方々のことを思うと、僅か30分の運命の違いに、ひどく重苦しい思いに襲われる。 まして、あの日、同じ電車に乗っておられて、幸いにして御無事であった方々は、御無事であっても、非常に重い気持に今でも支配されておいでだろう。 大変なことである。

 さて、この文を書く気になったのは (前からずっと、書こうと思っていたが)、 あの事故のあった線路のカーブのことである。

 あの後、福知山線が再開してからすぐに、私は一度、一番前の車両に乗って、ガラスごしに運転席を通して、電車の走っていく方向をずっと見てみた。
 そしてあのカーブにさしかかった時、信じられなかった。 この曲りの大きなカーブのところで、100kmを超える速度で走ったなど、人間の基本感覚として、理解できなかったのである。 まさか! とても信じられない……。
 その、とても信じられないことが起こったのだ。

 もしもあれだけの急カーブを自動車を運転して通るとしたら、あのカーブが見えたら、本能的に足がブレーキにかかって、カーブにさしかかる前にすでに、ぐんと減速するだろう。 どんな人であろうと。 何も考える前に。 自動的に。
 あのカーブは、そのぐらいの急カーブである。

 つまり、運転手の人は、人間のごく基本的な、あまりに当然の本能に、無理に逆らって、あの場所を突っ走ったのである。 そういうことが人間に起こりえた、ということが、恐ろしい。

 あの事故の直後、マスコミはこぞって (多分裏で何かの情報操作が働いたのだろうが)、 新型ATSが設置してなかったのはけしからん、と騒ぎ立てた。 どうも、裏で、新型ATSを作る企業の儲けをはかろうという力が大きく働いていたのではないか、と想像したくなるくらいに。

 考えてもごらんいただきたい。 日本に鉄道が敷かれてから、すでに百年以上になる。 その間、ただの一度も、もちろんATSなどまったく存在しなかった時代にもずっと、 あのような事故は起こらなかった。 この明白な事実を、もっと直視しないといけない。 今回の事故が起こったのは、新型ATSが設置されていなかったからではない。

 あれほどの急カーブを、あのような速度で走ろう、などということは、人間の感覚としてありえないから、そんなことをする運転手はこれまでただの一人も存在しなかったのである。 それだけの話ではないか。 それだけの話だからこそ、あまりに恐ろしい。

 確かに、人間には過ちがある。 従って、機械の力を借りて、自動制御ができれば、それもあった方がいいだろう。 しかし、その種の機械があるから百%安全だ、と言い続ける人たちこそが、あちこちで、大きな事故を起こしているではないか。 問題は、機械を使う人間の方である。

 つまり、鉄道百年の歴史で、まだまだ人間が人間の基本感覚に忠実に生きることができた時代には、急カーブでは当然すべての運転手が速度を落とすから (わざわざ頭で反省する前に、ブレーキをかけていたはずだ)、 ああいう事故は起こらなかったのだ。

 以前も、カーブの場所では、速度制限の数字が線路脇に表示してあった。 運転手はそれを見て、それに従うことが求められていた。 彼らは、常にその数字に注意してはいただろう。 けれども、それ以前に、あれだけの急なすごいカーブにさしかかったら、本能的に、速度を落としていたはずである。

 確かに以前にも脱線事故はあった。 しかしこれほどの惨事にいたる事故はなかったし、 単なる速度の出し過ぎ、それも急カーブでこれ程の無謀な速度の出し過ぎによる大事故はなかった。 人間のまっとうな感覚が尊重されている限りは、そういうことは起こり得ないのである。

 言い換えれば、あの運転手の人は、そういう人間としての基本感覚までも無視して突っ走ることを強制されたのである。 これは恐ろしい犯罪ではなかろうか。 もちろん、運転手の人が犯罪を犯したのではなく、 運転手の人をそのように異常な自殺行為にまで追いつめたJR西日本社長以下幹部の犯した犯罪である。 こういう犯罪は厳しく罰せられねばならぬ。

 その意味では、いや、あらゆる意味で、あの運転手の人も、この事故の被害者なのだ。 そこまで人間性を、人間の基本感覚を、抹殺することを強制されて、本能に逆らってあの事故に無我夢中で突入なさったのだから。 私は彼に心から同情している。

 皆さん、あの場所を一度通ってみていただきたい。
 車の運転に慣れている人なら、あの場所にさしかかったら、電車に乗っていても、何も考える前に、右足がブレーキを踏もうと本能的に動こうとするのを感じるだろう。

 JR西日本の企業幹部の連中は、そういう人間性の抹殺を運転手たちに、社員のすべてに、強引に強制している。 今までの歴史で起こることのなかったような、考えられないほどの人間的基本本能の抹殺を。

  しかもあの連中は、自分が何をやっているのかもまったく自覚せずに、現場の苦労など何一つ知らずに、のほほんと、贅沢な部屋で贅沢にうずくまっておいでになる。 あいつら、骨の髄まで悪い。 しかも、自分が悪いということを、まったく自覚していない。

 電車が5分ぐらい遅れたっていいではないか。 それを僅か5秒の遅れまでもとりもどさせようと強制するから、しかもその強制には嫌らしい弾圧を伴うから、 運転手はあせって、かえってうまく停車しそこなったりして、ますます遅れを多くする。

 だいたい、電車が遅れるのは、運転手の責任ではない。 現在の社会のさまざまな機構の中で、電車の遅れといった事柄は、さまざまな原因によって不可避的に生じる。 それを運転手個人の責任に帰するなど、ものを知らないにもほどがある。

 そして、JR西日本に限らず、現在の日本社会に風靡している 「企業原理」 優先主義は、あらゆるところで、本当は複雑でさまざまな問題から生じる事柄を、現場の当事者一人の責任に押しかぶせ、その人一人をしめあげて、責任をとらせようとする。
 だから、その人は、もはや人間の基本感覚さえも自分で抹殺して、突っ走らざるをえなくなるのだ。

 そういう企業風土の中で、毎日しごかれ、追いつめられて、ついに、あのカーブで減速するという基本感覚まで抹殺されてしまった一人の運転手が、あの事故へと突っ走った。 誰の責任かは、明瞭だろう。

 だがこれは、もちろん、JR西日本だけの問題ではない。
 今の日本社会では、あらゆるところで、これと同じ現象が起こっている。 あらゆるところで、人間の基本感覚を自分の手で抹殺するように強制されている人が大勢存在する。

 人間が、人間の基本感覚を抹殺されれば、いくらでも恐ろしいことが起こる。 しかもその人間たちの手に、一つ間違えば大勢の人が死ぬような機械や物質や機構がゆだねられているのだから、本当に恐ろしい。


第8回 誰があいつを支えているのか
2006年1月4日

 この「今日の一言」の欄は、日常茶飯の何か楽しいことを随想めいてちょっと書いてみよう、という趣旨ではじめたのですが、今までのところ、ただの一回も、そういう文をのせることができませんでした。
 一年に一度ぐらいしか更新しないと、どうしても、あまりにひどい昨今の世相について、何も言わずに通りすぎることができなくなるからです。
 しかし、やはり、日常茶飯の楽しい随想も大切ですから、次回こそそういうことにして、今回は仕方がないから、もう一度。

 昨年9月の総選挙以来、みなさん、今まで暗い気持だったのが、ますます暗く思っておいででしょうか。
 どうして、あそこまで低級で、ひどく、あさましい人間が、この国の総理大臣にここまで長く居座っていられるのか。
 それどころか、ますますいい気になって、威張りくさって、やりたい放題、それも、恥ずかしくて見ていられないようなことばかりなのですが、しかし、大量の害悪を流しますから、単に恥ずかしいとのみ言ってもいられず……。

 所詮、ただのチンピラ右翼じゃないですか。中身のないことおびただしい。水準の低さときたら、何とも恥ずかしい限り。実際には、ただひたすら、まさに文字通りブッシュの犬と言われるとおりのことしかしていない。
 人々は、軍事政策、ブッシュの侵略行為のたいこもち、等々について、「ブッシュの犬」というあだ名をこの人物にたてまつっておいでですが、そして、確かにおっしゃるとおりですが、しかしこの人物がブッシュの犬であるのは、それだけでなく、たとえば経済政策、日本の国内政策についても同様なので、日本の国家体制が、ブッシュにつながる経済勢力にとって儲かるような機構になることばかりを「改革」と称して、やっておいでになる。

 どうしてこんな恥ずかしい奴がいつまでこの国の総理大臣に居座っているのだ、と、お互い恥ずかしい限りですが、問題はやはり、このとびきり低級な人物を国民の多数が支持している、という点にあります。
 だから、あの中身のない人物が、ひたすら思い上がって、威張りくさる。
 なんで、こんな程度のチンピラ右翼を、多数の国民が支持するのか。

 思うに、この人物を選挙で支持する多数の国民は、どうやら、この人物の「政策」を支持しているわけではなさそうです。
 何故なら、その「政策」は、大多数の国民にとって、何の役にも立たないばかりか、非常な損でしかないからです。それを今更ここで丁寧に論じる必要もありますまい。

 では、何故、多数の国民があの人物を支持するのか。
 まことに残念ながら、我々はここで、事実を正直に見据えないといけないでしょう。
 国民の多数は、あの人物の中身を支持しているのではなく (どうせ中身なんぞないのだから、支持しようもない)、そのスタイルを支持しているだけなのです。
 やたらと独裁的で、威張りくさって、自分が何様であるかのように図々しく振舞い、……。

 つまり、強い独裁権力にあこがれる心情、自分に反対する相手は、理屈も何もなく、ただ強引に力でもって排除するスタイル……。 そういうものに、国民の多くが引かれている。

 これがすなわち、民衆のファシズムです。
 多くの民衆が、自分もまた、小権力になって、まわりに対して威張りくさってみたい、と思っている。 そういうファシズム的心情を、容認してくれる、容認どころか助長してくれるのが、あの恥ずかしい総理大臣がまきちらしているスタイルなのです。

 ファシズム的心情を喜ぶ国民が、チンピラ右翼に権力を与える。そして、チンピラ右翼が総理大臣の座に居座ることによって、それを支持した国民の中にますますファシズム的心情がつちかわれる。

 多くの人々が、かつての戦前戦中ファシズムの時代を知っている人々が、今やあの時代が再来しつつある、と心配なさっている。 しかし、質的には、すでに同等の時代になっている、場所によっては、もっとはるかにひどい、と言えるでしょう。
 いや、あの時代が再来する、というのではなく、実はあの時代の日本的国民の質が、変らぬままに持続しているのです。我々は、残念ながら、それを変えることができなかった。

 たまたま事故があったので明るみに出ましたが (そのせいで、百人以上もの人が亡くなり、もっと多くの人々がいまだに怪我の後遺症で苦しみ……。 「たまたま」 の事故が、何と凄惨な結果を引き起こすことか)、JR西日本の労働者管理のおぞましい体質。
 しかし、事故があったから明るみに出ただけであって、実際には、明るみに出ないところで、非常に多くの場所で、同様なおぞましい体質が支配している。
 あの、不当と言う程度ではすまない、あきれるべき非人間的労働者管理のやり方が、そこで働く労働者を、どうにもならない心情にまで追いつめ、それが、未曾有の事故にいたる。

 しかし、鉄道だから、それが未曾有の事故に直結しますが、大多数の職場では、直接人間の生命にはかかわらない仕事をしているから (本当は、たいていは、どの職場も、間接的に、人々の、他人の、生命と生活を大きく脅かすようなことにたずさわっているのですが、直接責任を問われない限り、そういう職場を支配、管理している連中は、それが他人の生命と生活を脅かすことなのだ、という自覚さえ持っていない)、なかなか気がついていないだけで、実際には、非常に多くの職場で、嘘みたいに非人間的なしめつけを 「合理的な労働管理」 の名のもとに強制している。

 その質は、実は、かつての戦前戦中のファシズムの体質そのものではありませんか。
 かつての軍隊での、兵隊に対するおぞましい抑圧の質と、まったく同じではありませんか。
 多くの人は気がついていないけれども、かつての日本軍に徴兵され、生命を奪われた人々は、戦場で、敵の弾丸で殺されただけでなく、日本軍の中でのおぞましい弾圧によって、殺されているのです。戦病死扱いされた人たちは、本当のところ、上官の手によるリンチ、「いじめ」などによって、生命を奪われた。 しかし公には、「皇国の軍隊」には間違いなどあるはずがない、という建前上、統計的には、それもまた「戦死」「戦病死」「病死」扱いになっているだけです。

 等々。

 つまり我々は、戦後60年かかって、我々この国の民衆の間で、本当に人の生命を重んじ、他人の生活と権利を重んじ、一人一人の生活と生命を重んじ、それぞれの自由を大切にし、等々の、要するに民主主義と言われるものを、十分につちかってくることができなかった。
 日本人一般の生活と職業の水準においては、みずからの力で、それぞれの人のみずからの力で、そしてその力が集って全体を作るような、そういう力で、自分たちの間に民主主義の姿勢を十分につちかうことができてこなかった。

 我々は、戦争に負けて、外から押しつけられた民主主義のおかげで、自分たちも民主主義を生きている、と錯覚しつづけた。実は、戦争に負けても、国民全体にしみついたファシズム的心情が一朝一夕に消えるわけではないのに、自分たちは一挙に民主主義の世の中を生きているのだ、と錯覚し、自分たち自身の中にあるファシズム的体質を克服する努力をしてこなかった。
 それは、一朝一夕の努力で何とかなるものではなく、あの、1945年からはじまって、長い期間を通して、多くの人々がしっかり努力し続けることによって、ようやく克服できるようなものでしょう。
 それを、甘くかまえて、たいした努力をしてこなかった。
 その結果、あの時に十分に芽をつんでおかなかった民衆のファシズム、国民のファシズムが、徐々に再びのさばりはじめ、一度出て行ったはずの悪霊どもが七匹の悪霊を連れてまた舞い戻ってきて、今やまったく無反省に、まるで平気な顔をして、あの小泉某とやらをぬけぬけと支持している。

 歴史のどの時代においても、ファシズム的独裁者を生み出すのは、民衆のファシズムであった。残念ながら。

 日暮れて、道遠し、にはちがいない。
 しかし、我々は、我々自身の、我々のまわりの人々の、質を高める努力をする以外に、仕方がない。
 これまで、 「戦後民主主義」 とやらで何となく安心して、最も手を抜いてきたのが、その点だったのだから。

第7回 いろいろ
2004年11月7日

(1) どうも、 世の中あまりに腹が立つことばかり多くて、 何かを書こうにも、 あまりに言わねばならないことが多すぎて、 しかし、 この欄を御覧下さるような方々なら、 わざわざ言わなくてもわかっていることばかりで、 今更書いてもしょうがないし、 しかも、 相変わらず、 ますますどんどん悪くなるから、 黙っているわけにもいかないし。

  我々の世代の人間は、 20世紀半ば、 戦争が終った時に、 これからは世の中がだんだんと良くなるのだ、 と思っていた。 子どもの頃に、 そして青年期を、 そのように思って過ごすことができたのは、 幸せなことだったのだろう。
  何せ、 おぞましい植民地侵略と、 ファシズム、 軍国主義の支配とが席巻した20世紀前半が終って、 その後は、今はいろいろ駄目な点はあっても、 世の中少しずつ、 必ず、 すべての点が、 いずれは、 だんだんと良くなっていくものだ、 という希望を持って生きていた。
  それがまあ、 今となっては、 話が逆ではないか。 まだ10年前、 20年前の方がだいぶましだった、 とか。

  補注。 ただし、 間違っていたのは、 ファシズム、 軍国主義は、 当時の日本とドイツとイタリアと、 ほかいくつかの国だけがそうだったのだ、 という歴史観である。
  この安直な歴史観が、 現在の退廃と危険を支えているのではないのか。
  現在のアメリカのファシズムは、 かつての日本のファシズムと同じくらいに悪い。 いや、 その持っている軍事力の大きさからすれば、 もっとはるかに悪い。
  現在のイギリスの侵略支配者的体質は、 かつてのファシズムの時代とまったく変っていないではないか。 かつて戦争に負けたファシズム国家は、 日本以外は、 もうファシズムや侵略国家はやめなければならない、 と思った。 それに対して、 イギリス人は、 なまじ戦争に勝ったばかりに、 何ら反省することなく今日にいたり、 相変わらず悪いことばかりやり続けているではないか。

  戦後の日本人たちに、 アメリカを民主主義の理想国家であるかの如く教えこんだのは、 どこのどいつだ。
  あそこにこそ民主主義のモデルがある、 なんぞとほめちぎって説教してきたのは、 どこのどいつだ。
  戦後の日本で、 ずっと言い続けるべきだったことは、 アメリカもかつてのファシズム日本と同じに、 おぞましい侵略国家だ、 ということではなかったのか。 血に狂って、 他人の上に爆弾を落とし続ける野蛮の最上級だ、 と言い続けるべきではなかったのか。
  それにもかかわらず、 アメリカさんに感謝しましょう、 なんぞと言い続けたのは、 どこのどいつだ。
  我々日本人のこの屈従的姿勢こそが、 まさにアメリカをつけ上がらせ、 イラク人の上に爆弾の雨を降らせ続ける結果を生んだのではないのか。
  あの連中は、 この日本人の姿勢を見た結果、 どんな相手であろうと、 頭の上から大量に爆弾を降らせ、 大量に殺戮しても、 その被害者であるはずの連中がアメリカを尊敬し、 アメリカを誉めちぎり、 アメリカ様々であがめまつる、 という風に勘違いしてしまったのではないのか。

(2) ブッシュが再選した。 また4年間、 我々は毎日腹を立て続けなければならない。
  また4年間、 大勢の人が殺され続ける。

(3) 郵政民営化について
  郵政を民営化して誰が得をするのか。 国民の圧倒的大多数にとって、 得なことは一つもない。
  むしろ、 いろいろ不便なことが増え (特に僻地では)、 郵便局職員にとっても働きにくい職場になる。
  にもかかわらず、 郵政民営化は国民にとっての当然の利益であるかの如く言い続けてきた点で、 マスコミの責任は大きい。 あたかもそれが 「構造改革」 の一環であるかの如く言いはやしてきた。
  それは嘘だよ。

  非常な論理のまやかしは、 郵便貯金、 簡易保険で集った莫大な資金の使い道についての議論である。 経済評論家めかした連中が、 さかんに、 これだけの巨大な金額が特殊法人などで無駄遣いされてきた、 これをやめさせるために民営化しないといけない、 と言い続けた。 これはひどい嘘だ。
  特殊法人などで国民の金がひどく無駄遣いされてきたのは事実である。 しかし特殊法人は政府の管轄下にある。 当の政府が、 自分の管轄下にあったらおかしな金の使い方をするから、 民営化しましょう、 と言うのだから、 これはみずから、 政府、 行政当局の手にあれば、 国民の金は無駄遣いされ続ける、 と告白しているようなものだ。 それなら、 責任のある政府なら、 政府の責任において、 正しい使い道で国民の金を使うようにすればいいではないか。 そのために我々は政府、 行政府の役人どもを大量の税金でもって養ってやっているのだから。 お前ら、 真面目に国民のために働けよ。
  それを、 その政府がみずから、 政府の管轄下にあれば金の使い方が奇妙になるから、 民営化しましょう、 と言い立てるとは、 何としても、 うさんくさい。
  民営化すれば自由に金が使えるようになる、 などというのは、 嘘である。 純粋に民業であるはずの (近頃はそれもずい分うさんくさくなってきたが) 銀行など、 保険会社など、 を圧迫しない形で、 純粋に民間の機関の一つとして、 郵便貯金、 簡易保険が位置づけられるとするならば、 実は、 郵政である必要がなくなるだけである。 かつ、 民間の銀行が行なうことのできる金融行動にはかなりな制限がある。
  もしも現在の法律では、 郵政にできることに限りがある、 というのであれば、 政府が責任を持っているのだから、 必要に応じて法律を改正すればいいではないか。 ただし、 本当に国民にも、 経済界にも、 納得され、 支持されることであるならば。
  ともかく、 政府がやっているとうさんくさいから、 民営化しましょう、 と、 当の政府が言い出す、 ということは、 この上もなく、 うさんくさい。

  郵政民営化で得をするのは誰だ。 道路公団の民営化を見れば話ははっきりしているではないか。 実は、 今までの政府管轄の公団がやっていたことと基本的にはまったく何も変らずに、 無駄な道路を税金で作り続けることを決めておいて、 名目だけを民営化して、 それが 「構造改革」 だ、 などとほざいていた。
  それで得をしたのは誰か。 今まで主として橋本派を中心とした道路族が牛耳っていた道路行政の儲けを、 「民営化」 に組織変えすることによって、 他の連中が、 つまり小泉にぶらさがっている連中がそれを懐にできるように仕組んだだけではないか。 その結果が、 選挙における橋本派の大幅な衰退と、 「森」 派と称する小泉の子分どもの大幅な増え方とに現れる。
  郵政の民営化だって同じことではないか。 今まで郵政族は橋本派の牙城だった。 それを、 「民営化」 という名前の組織替えによって、 儲けの流れの流れ先を変えるだけのことだろう。
  国民にとって何の得にもならないことを、 あたかも役に立つことであるかのように騒ぎ立てて、 何が何でも郵政民営化をしないといけない、 と、 うさんくさい小泉がうさんくさく騒ぐのは、 ほかに積極的な理由が何も存在しない以上、裏は見えすいているではないか。
  私は別に橋本派を支持しようなんぞというつもりではない (しかし、 旧橋本派には、 小泉右翼とちがって、 少なくとも 「ハト」 派が多かったのは事実である)。 どのみち小泉のやっていることは、 自民党の中の儲けの構造を、 自分の派閥の方に持ってこようとしているだけのことである。 それを 「構造改革」 などと称して、 でかい顔をしてつべこべ言うのは許せない。
  しかし、 それにのって、 小泉があたかも本当の 「構造改革」 をやろうとしているかの如き妄想をふりまき続けたマスコミの責任は重い。


   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 以下は 第6回 「子どもは誰のものか」 (2004年3月)です。
  (その後に、第1回〜第5回もまだ消さずにあります。 いずれ順に消しますが。)

 子どもは誰のものか。 答はあまりにはっきりしている。 しかし、 このはっきりした答をはっきり言う人があまりに少なすぎる。
 子どもは、 その子ども自身のものである。 ほかの誰のものでもない。 これが人権というものだ。
 大人については、 さすがに、 今時、 この人は誰のものか、 などという議論をすることはなくなった。 その人に対する主権を持っているのは、 その人自身であって、 ほかの誰でもない。

 大人について、 ようやくそれが常識になった。 しかし、 それが常識であれば、 子どもについて、 何故同じ常識を言わないのか。
 日本では、 子どもの人権に関する意識が極端に低い、 と言われる理由である。

 最近、 実の親による子どもの虐待事件が相次いでいる。 特に、 岸和田でおきた例の事件以来、 世間は、 特にマスコミが、 かしがましい。
 確かに、 最近この種の事件がかなり増えているのは事実である。
 しかし、 第一に注意しておくべきことは、 実は、 以前もけっこう多かったのに、 世間が注目しなかった、 というにすぎない、 という事実である。 これは重要な点である。 隠れていて、 表に出なかった、 ということだ。

 あたかもこれが最近の世相の特殊な新しさであるかの如く思い込むと、 何か新しい手を打たねばならない、 ということになる。 それが危険な罠なのだ。
 いや、 確かに、 最近かなり増えているのは事実であろう。 従って、 何か新しい手だてが必要とされる、 ということも。
 しかし、 過去において、 政治的 ・ 全社会的な規模では、 ほとんど何の手だても講じられてこなかった、 というのが事実であるのだから、 何か新しい問題に対処しようというのではなく、 昔からある問題だが、 これまで取り組んでこなかったことに取り組むのだ、 という姿勢が重要だろう。

 とりあえずそのことを申し上げた上で、 しかし、 日本の政治は、 戦後すでに半世紀以上続いてきた保守政治は、 及びその影にかくれて好き勝手な官僚支配を確立してきた日本の行政権力は、 こと教育、 子どもについては (ほかの多くのことについても同じだが)、 何かことが起こるたびに、 それを口実にして、制度を改悪してきた歴史がある。 いい口実が見つかったとばかりに、 国家主義的な教育政策の中でやりたかったことを一つ二つ、 実現してしまうのである。それは、問題の出来事、 その背景の難しい世相、 等々と取り組むためには何の意味もない、 むしろしばしば、 ひどい逆効果しか生まないような政策、行政でしかないにもかかわらず。

 このようにして、 何か起こるたびに、 じりじりと、 日本の教育状況は悪くなってきた。 二重に。 問題状況が解決されないから、 その問題状況はますます悪化する。 加えて、 余計な右翼的政策を導入するから、 その分、 更に悪くなる。

 岸和田の実子虐待殺人未遂の事件は、 まことにいたましい事件である。
 そして、 またぞろ、 これをきっかけに、 右翼的、 保守的、 ないしやたらと国家主義的な意見を流布しようとする連中がうごめきはじめる。

 近ごろ、 よせばいいのに、 ニュース番組で、 特に昼間の番組で、 ちゃちな、 ただただ何もものを知らない愚かな 「タレント」 やら、 しかしそれよりもっと悪いのは、 まったく何も知らずに、 しかし知ったかぶりをしたがる右翼マスコミゴロが (こういうのが評論家気取りで鼻の下を長くして、 好き勝手なことを言いつのるのは、 どうにも腹にすえかねる)、 解説者にでもなったつもりで、 まあいろいろ、 好き勝手な滅茶苦茶を言いつのること、 言いつのること。

 先日、 私は昼食がかなり遅い時間になるのだが、 午後の時間に昼食を食べながら、 見るともなくテレビのニュース番組を見ていたら (読売テレビ)、 またまた岸和田の事件を取り上げていた。 そして、 右翼の評論家めかしの男が、 この際とばかりに嬉しそうな顔をして、 「子どもは親のものではない。 国家のものなのだから」 とのたまうた。

 まさに、 他人の悲劇を利用して、 ここぞとばかりに右翼的国家主義を拡張しようとする、 えげつないファシズム精神である。 こういう奴らをのさばらしてはならぬ。

 「子どもは国家のものである!」 このせりふ、 どこかで聞いたせりふ、 どころの騒ぎではない。 我々が子どもの頃、 毎日毎日そう言って騒ぎたてられていたのだ。 軍国主義の政府も、 そのたいこもちのマスコミも。 我々当時の子どもは、 まさにその犠牲者だったのだ。 時まさに、 1944年、 終戦の1年前のことである。 我々疎開児童は、 まさに、 子どもは親のものではない、 国家のものだ、 という名のもとに、 親元を引き離され、 集団隔離されて、 「国家の子ども」 として育成されていた。

 その思い出は、 思い出どころか後遺症は、 あまりに多く、 いまだに私の精神に暗い影を落としている。
 しかし、 それはあまりに多すぎるので、 ここで急に語ることもできないから、 別の機会にゆずるが、 戦時中の我々子どもが、 「子どもは国家のものだ、 親のものではない」 というファシズム精神のもとに、 どれだけの被害をこうむったか、 語りだしたらきりがない。
 これは、 大問題なのだ。 国家の名のもとに、 子どもの人権を、 主体を、 その生活を、 奪うようなことをしてはならない。

 子どもを育てる責任さえちゃんと果たそうとせずに、 逆に虐待して死にいたらせようとするような、 そういうしょうがない親のもとに子どもを置くよりは、 国が責任をもって子どもを保護する方がよい、 などと言うと、 聞こえはいいが、 それは火事場泥棒の論理というものである。

 確かに、 それは行政の責任である。 今回の岸和田の事件にしても、 行政の責任は大きい。 そのことについても、 いずれまた記す時があろう。
 しかし、 行政が福祉行政の責任を果たすべきだ、 ということと、 子どもは誰のものか、 ということとは、 まったく別の話である。 そこをすりかえるのは、 許されない。

 また別のテレビで (朝日だったか毎日だったか)、 こちらは良心派めかした評論家もどきの人物が、 したり顔をして、 子どもは親のものではない、 共同社会のものなのだ、 とのたまうておられた。

 しかし、 「国」 を 「共同社会」 と呼び変えればよろしい、 というものではない。 どちらも、 基本は同じことである。
 ではいったい、 その 「共同社会」 なるものの意志は誰が代表するのか。 そういった評論家もどきの愚物どもか、 地域の顔役か。 まさにそれでは、 戦時中の 「隣組」 の復活ではないか。 国家ファシズムを支えたのは、 地域ファシズムだ、 という鮮明な事実を忘れてはならぬ。 それとも、 地方自治体か。 よせやい。 どこぞの市議会議員どもに、 子どもたちの未来をゆだねられるか!

 要するに、 戦後半世紀以上もたって、 相変わらずほとんどの日本人が、 かつてのファシズムの思想からまったく抜け出せていない、 ということなのだ。 今や人口の大多数をしめる戦後生れの人たちでさえも。 いや、 彼らには、 ファシズムの思想様式しか伝えられていないのだ。

 だからこそ、 子どもは親のものではない、 と言う時に、 すぐに続けて、 では誰のものか、 と問うてしまうのである。 そして、 親のものではない、 誰かほかの者たちのものだ、 などと言い出したら、 その答が直接的に 「国家」 であろうと、 「地域社会」 であろうと、 ほかの誰かであろうと、 ファシズムの思想であることに変りはないのだ。 子ども自身の人権を認めていないのだから。

 子どもは誰のものか。 当り前じゃないか。 その子ども自身のものだ。 ほかの誰のものであってたまるものか。
 当り前の答が、 当り前にすんなりとすぐに出て来ない。 今の日本の思想状況は、 おそろしくゆがんでいる。


 第5回 「イラクの嘘論理」
 せっかく定年退職したのだから、 この欄は、 世間のことを離れ、 何となく楽しい生活雑感でも書こうか、 と思ってはじめたのですが、 世の中はますますひどくなるばかりで、 結局、 世の中をめぐるさまざまな問題についてものを言わざるをえなくなってしまいます。
 特に、 このホームページの更新を怠っていた2年間に起こったことは、 次々と沢山起こったことは、 どれ一つ取り上げても、 もう口をきくのも嫌になるほどのひどい事ばかりで、 ひたすら気分が重くなるばかりです。

 この年になって、 そろそろ自分の死を考えねばならなくなってきたのに、 最期に、 自分が生れた頃よりは、 世の中、 少しは良くなったね、 と言って死にたいのに、 逆に、 世の中ますます悪くなるばかりで、 自分が死んだ後、 どうなるのだろう、 とひどく悲観的な思いをいだいたまま死んで行かねばならないのは、 何とも憂鬱なことです。

 さて、 なぜ 「嘘論理」 という表題をつけたかというと、 現在世間を騒がしている自衛隊海外派兵をめぐる議論です。
 さすがに、 派兵反対が世論の7割ぐらいをしめるので、 その点では、 まあまあ日本人の平和感覚も、 それほどボケてきてはいないな、 と思えるみたいなのですが、 そこに働いている実際の論理を見てみると、 そうも言ってはいられません。

 つまり、 反対なさる大部分の人たちの論理は、 また、 特にマスコミや野党のもののおっしゃり方は、 現地はまだ戦闘状態で、 危険だから、 そんなところに自衛隊を派兵すれば、 死者が出るかもしれない、 それは困る、 という論理です。 この論理、 だいぶおかしくはありませんか。

 論理の正しさは、 その裏側をひっくり返してみれば、 すぐにわかります。
 それなら、 もしもイラクの状態が安全で、 自衛隊員に犠牲者が出る可能性がないのだとすれば、 自衛隊を派兵してもよろしいのでしょうか?

 つまり、 危険だから自衛隊を派兵するな、 という論理は、 本当は、 嘘論理なのです。 小泉某ほかの狸どもは (そういう言い方をしたら、 本物の狸たちに対して失礼ですね。 我が家の近辺に出没する狸たちは、 もっとはるかに善良ですから)、 世界を知る、 理解する、 ということについては、 嘘みたいに無能、 無能力、 悲しいほどに低脳の人たちですけれども、 この種の政治的な嘘論理のやりとりについては、 まことに才能のある人たちであって、 こういう議論がなされればなされるほど、 ほくそえんでおいででしょう。

 彼らも、 現地が 「危険」 に満ちていることは、 よく知っている。 しかし、 彼らの腹づもりとしては、 もしも自衛隊員に死者が出なかったら、 せいぜい多少の怪我人程度なら、 ほれ見たことか、 自衛隊派兵は正しかったのだ、 ということになる。 かくして、 もしも、 こっち側に死者さえ出なければ、 自衛隊を世界のどこにでも派兵してよいのだ、 という暗黙の了解を、 この際確立することができる。 しかもそれは、 小泉某たちはただ黙っていても、 野党とマスコミと世論とが、 よってたかって、 作り上げてくれるのだから、 彼ら軍国主義者どもにとっては、 こんなにうまい状況はないでしょう。

 まさに、 こういう世論の地ならしをするために、 彼らは、 事あるごとに、 自衛隊の海外派兵をやりたがるのです。

 理屈としては、 この件については、 アメリカの軍国主義者のものの言い方の方が、 正確です。 彼らは、 日本の自衛隊のイラク派兵について意見を求められて、 危険な場所であるからこそ、 軍隊が行く必要があるのだ、 と答えているのですから。 まったく平和で、 危険がないとすれば、 軍隊を派遣する必要はないじゃないですか、 と。

 つまり、 いま日本国家がやろうとしていることは、 まさに、 軍隊を軍隊として海外派兵することなのです。

 更に、 もう一歩進めて考えてみて下さい。
 もしも、 イラクの状態がもはや 「危険」 でないとしたら、 それなら、 自衛隊を派兵してもよろしいのですか?

 イラクの現状は、 外国の軍隊によって侵略され、 大量にイラク国民が殺され、 イラク人の財産を奪われ (最大の財産たる石油を、 今やアメリカ人が勝手に手に入れているではありませんか)、 イラク国民は自由を奪われて、 いつアメリカの兵隊に襲われるかわからない、 という危険な状態を生きているのです。 それも毎日、 24時間。
 その、 侵略、 軍事占領 ・ 支配の状態を作っているのが、 アメリカ軍です。

 そのアメリカ軍の指揮下にはいる軍隊 (つまりアメリカの召使い軍隊ですが) を、 日本国家がイラクに派遣しようというのですから、 これは軍事侵略以外の何ものでもありません。

 その場合、 もしもイラクの状態が 「安全」 であるとしたら、 それは何を意味するのでしょうか。
 それは、 彼らが、 もはや抵抗できないほどに疲れ、 消耗しきってしまった、 ということ以外の、 何を意味するのでしょうか。

 だとすれば、 ますます、 イラクの現状が 「安全」 であれば自衛隊を派兵してもよろしい、 という論理は、 非常に手前勝手な、 侵略の論理でありましょう。 相手が抵抗できない、 「平和」 な場所であるなら、 いくらでも侵略してもかまわない、 ということになる。 これは、 軍事侵略として、 最もひどいことではありますまいか。

 軍隊というのは、 一般の人間にとっては、 恐ろしいものです。 それがそこに存在しているというだけで、 まことに恐ろしいものです。 それだけですでに、 自分たちの日常生活がさまざまな仕方で規制される。 ましてや、 現在のイラクの状態では、 事あるごとに、 その軍隊が土足で自分たちの家に踏み込んで来て、 好き勝手な悪いことをしていく。
 自衛隊の側としては、 自分たちが誰も死ななければ、 それでいい、 というのでしょう。 しかし、 彼らが重武装でもってそこに存在し、 好き勝手に振る舞うことで、 膨大な人権侵害を受ける側のイラク人にとっては、 それでいい、 などというわけにはいきません。

 「危険」 でなければ派兵してもいい、 などという論理にのっかっていると、 物事の最も基本のところを忘れてしまいます。 軍隊は、 その存在そのものが、 危険なのです。 特に、 外国の軍隊とは、 そういうものです。
 自衛隊の兵隊にとって 「危険」 でないとしても、 彼らが存在することは、 その土地のイラク人にとっては、 危険なのです。

 この問題をめぐる議論を見ていると、 今や (前からずっとそうだったには違いありませんが、 今は特に)、 日本人が極端な国粋主義に陥っていることがわかります。
 あなた方は、 自衛隊員一人の生命を心配している。 しかし、 何千何万というイラク人の生命と生活の危険は心配していない。 今、 危険にさらされているのは、 どっちなのですか。
 あなた方は、 日本人の一人の生命のことしか考えず、 その軍隊によって侵略支配される側の人たちのことは考えないのですか。 あなた方は、 軍隊を派遣する勢力の立場に立ってものを考えるのですか、 それとも、 軍隊によって踏みにじられる人間の側に立ってものを考えるのですか。

 蛇足だけれども、 もう一言つけ足しておきましょうか。
 この際、 自衛隊は 「復興」 支援のために出かけて行く、 なぞという、 見えすいた嘘論理だけは、 やめといてもらいましょうか。 復興を必要とするくらいに壊したのは、 誰なんだ? アメリカの軍隊じゃないですか。 壊した奴らに責任を取らせろよ。 それを声を大にして言うのが、 国際政治に対する責任というものでしょう。

 百歩ゆずって、 「復興支援」 に加担するとしても、 今最も必要としていることは、 ともかく早く彼らがアメリカ軍に脅かされずに安心して毎日生きていけるようになる、 ということじゃないですか。 その状態をなるべく早く作り出すように努力することが、 最大の復興支援でしょう。 その上で、 イラク人に頼まれたら、 必要な物資その他の援助を送ればよろしい。 米軍支配の 「治安」 維持なんぞを、 「復興支援」 などという嘘論理でごまかしてはいけない。

 もう一つの嘘論理 : 死者の数
 日本のマスコミは、 どうして、 アメリカ軍隊の死者の数ばかり毎日正確に数えて報道するのでしょうか。
 まあね、 現地に取材に行かなくても、 これは米軍当局が毎日発表して下さるからな。

 すでに、 「戦争」 の最中でも、 日本のマスコミは、 戦死したアメリカ人の人数は、 毎日正確に報道してくれていたけれども、 殺されたイラク人の数はちっとも報道してくれなかった。 たまに断片的な報道が伝わってくるのみ。

 思い出してもごらんなさいな。 かつてファシズム統治下の日本の侵略戦争当時、 日本のマスコミは、 1945年の春ごろ以降の壊滅的な状況の時は別として、 それ以前は、 日本軍の戦死者の数は正確に報道してくれて、 死んだ軍人を英雄として讃美しつづけた。 それが 「靖国」 の思想である。

 そして、 戦後になって、 我々ははじめて、 徐々に、 日本の軍隊が中国でどれだけの大量殺戮を行なったかを、 知るようになった。 南京大虐殺ほか。

 米軍の死者の数だけ数えている現在の状況は、 あの時と変らないではありませんか。
 更に、 日本のマスコミはまだ断片的に、 時々、 イラク人がどのように死んだか報道してくれていますが、 アメリカのマスコミはそれよりももっと報道していないのです。 つまり、 アメリカ人が現在置かれている状況は、 かつての我々の大本営発表の時代と同じ状況なのです。

 我々は、 アメリカ軍が頭の上からばらまいた大量殺人兵器のおかげで、 イラク人がどれだけ殺されたか、 という、そちらの数字の方をしっかり頭にいれないといけないのです。
 しかし、 その数字は公表されません。 公表されないどころか、 誰も数えてさえくれないのです! 誰も死者の人数を数えてさえくれない仕方で死んでいった人々。 死んだという事実さえ、 誰も気にさえしてくれないで、 死んでいった人々。 これ以上悲惨な死はありますまい。

 ヨーロッパのマスコミの一部が、 だいぶ後になって、 ようやく、 およその見当をつけた数をかぞえたりしていますが、 それによっても、 数千人。 五千人は超えるのでしょう。 アメリカ兵隊の百何十人とは、 まるで桁が違うじゃないですか。 それも、 ある程度わかる場合を数えただけですから、 実際にはもっとはるかに多く、 数万人は死んでいるでしょう。

 直接に爆弾に当たって、 いやさ、 当てられて、 死んだ人の数だけを数えないで下さい! その後、 幾日かたって、 数ヶ月たって、 その時の傷がもとで死んだ人は、 即死の人に匹敵するくらいに多いでしょう。 更には、 直接の被害じゃなくたって、 たとえば、 両親が死んだりした子どもが、 無事に生きていけると思っているんですか。 その他、 あらゆる事情を数えれば、 文字通り、 数え切れなくなる数字なんです。 それが戦争というものだ。

 これを大量殺人と呼ばずに、 何と呼ぶんです?
 このことをやったアメリカの兵器を、 大量殺人兵器と呼ばずに、 何と呼ぶんです?

 しかし、 もっと重大な事実は、 一応 「戦争」 終決した後、 「戦争」 中よりももっと数多くアメリカの兵隊が死んでいる、 と言われる、 あの数字の嘘論理です。
 いや、これは嘘ではありますまい。 そして、 確かに、 広く伝えられなければならない事実でしょう。
 しかし、 事実は一面だけを伝えてはいけないのです。

 断片的に報道されることだけでも、 アメリカ人が一人死んだら、 その後、 その報復として、 「テロ対策」 などと勝手に名前をつけて、 少なくとも数百人、 しばしば数千人のイラク人の家庭にアメリカの兵隊が銃をかまえて、 土足で踏み込み、 ぶんなぐるは、 蹴っとばすは。 ちょっと抵抗すれば、 その場で殺されるは。 そうやって、 一人のアメリカ人の死に対する報復として殺されたイラク人の数は、 誰も数えてもくれないじゃないですか。

 更に、 拘束されるイラク人の人数の多さ。 有無を言わさずしょっぴいていかれる。 一人のアメリカ人が死ぬごとに、百人を越えるイラク人がしょっぴかれ、 拘禁される。 拷問、 行方不明と称する殺人。
 殺されないまでも、 傷を負い、 仕事ができなくなり、 生活の場を破壊され……。

 ごく僅かに、 断片的に、 多少注意深い人の眼にだけ辛うじてとまる程度の分量の報道を拾うだけでも、 この程度のことはわかるじゃないですか。 我々にはわからない仕方で、 どれだけ多くの人々が殺され、 生活を奪われていることか。

 日本のマスコミも、 もう少し現地取材をしっかりやって、 事実を広く伝える努力をして下さいな。 それをやるのはジャーナリストの身を危険にさらすことだ、 というには違いないけれども、 だからといって、 NHKみたいに、 アメリカの大本営発表ばかりを流していたって、 しょうがないでしょう。

 自衛隊派兵というのは、 そのアメリカの軍隊の片棒をかつぎに、 片棒をかつぐというか、 その召使いになるために、 出かけて行くのです。 それ以上でも、 以下でもない。 それ以外のいかなることでもない。 人殺しに加担しに行くのですよ。

 ほかにも、 言わねばならないことは、 沢山あります。 全部書きはじめたら、 毎日徹夜して、 この文章だけを書き続けても、 永遠に終らない程度に、 沢山あります。
 みんな、 もっと、 叫んでくれ!



 第4回 「火事場泥棒」 (2001年12月28日)
 どうも、相変わらず政治の話で、すみません。
 21世紀は、今のところ、20世紀後半に多少はほの見えていた希望も、あちこちで打ちくだかれ、嫌な世紀になりそうです。従って、毎回この種のことを書くのも、やむをえないことでしょう。 次回は、もう少し違う話題にしたいと思いますが。

 大勢の人が困っている時に、困っているせいで、ほかのことに手が回らない隙をねらって、 他人の迷惑など知らぬ顔、好き勝手な仕方で自分たちの得をはかるのを、火事場泥棒と申します。
 しかし、次の二つの例は、火事場泥棒よりも桁違いにけしからん、 と申せましょうか。

 一つは、もう八年も前のこと、阪神大震災の時に、 その被害が最も大きかった神戸市の話。
 地震が起こったまさにその日のうちに、神戸市長は、復興対策に名を借りて、政府に、神戸の 「復興」 のために、是非神戸空港の建設をよろしく、と願い出た!

 そりゃまあ、公共工事でたらふく私腹を肥やしてきたあんたら役人や、それとつるんだ一部業界の人間たちにしてみれば、せっかくの大地震、自分たち念願の最大級の公共工事たる飛行場の建設を実現する絶好の機会、と思ったことだろう。

 だからとて、これだけの大災害を目の前にして、しかもその実態さえまだよく把握されていなかった最初の日に、多くの人々が困り、嘆き、苦労し、どうなることかと心配におののいていた、まさにその当日に、こともあろうに、 まずは青くなって、必死になって、市民の救済にあたるべき当の最高責任者が、 しめた! この際、念願の絶好のもうけのチャンス、と動きはじめたのだから、 これだけは許せない。

 言っとくけど、この秋のニューヨークの犠牲者の数よりも、阪神大震災の犠牲者の数は2倍以上だったんだぜ! 神戸市長たるもの、せめて10年ぐらいは、ひたすら涙を流して、自重しているものだ。

 役人の汚職根性の中でも、最も汚らしく、腹立たしい一件であった。

 第二は、現在の話。 これと関連して、つい、八年前の一件を思い出したので、上に記しました。
 自衛隊海外派遣の件。

 戦後日本の政治の歴史において、けしからんことに政権の座をしめつづけた自民党 (及びその前身。 および、近頃は自民党だけではないが) は、機会あるごとに、その機会と関係があろうとなかろうと (むろん、あるわけがない)、 自衛隊海外派遣を実現しようと、うのめたかのめで、ねらってきた!

 何か高価な道具を手に入れると、使ってみたくなるのが普通の心理である。
 だからこそ、武器を持ってはいけないのだ。 へたな奴が武器を持つと、ともかく使いたがる。 それがおぞましい殺傷を引き起こす。

 それなのに、もっとへたな奴らが、 軍隊を持った。
 その軍隊を、軍隊と呼ぶことができず、 まして使うこともできなかったので、 彼らは、いらいらし続けた。
 戦後50年間、彼らは、この軍隊を使いたくてうずうずしていたのだ。
 だから、これまでも、きっかけを見つけては、自衛隊海外派兵を策してきた。

 ニューヨークの事件で、彼らは、しめた、とばかりに、とびあがって喜んだ。
 今度こそ、自衛艦海外派遣の実績を作れるぞ!

 これは、風が吹けば桶屋がもうかる以上に、はるかに、辻つまのあわない話でした。
 アフガン人たちの頭の上に大量の爆弾が落とされ、数え切れない人が死んでいる、まさにその時に、こともあろうに、 しめた! この際こそ自衛隊海外派遣を、と騒ぎまわった。

 次は、以上とは直接関係のない話。
 いくらなんでも、これはひどすぎる、と思ったので (もっとも、近頃は、いくらなんでもひどすぎるのが、やたらと多すぎる世の中になってしまいましたが)、 書いておきます。

 ブッシュが、 ビン・ラディンさんについて、のたもうた、 He has no conscience, no soul !
 いくらなんでも、そりゃ失礼だよ。 今時、「良心も、霊魂さえも、持っていない」 のは、その番付を作ったら、 まずブッシュがその筆頭者ではないか。 いくらなんでも、失礼だよ。 自分のことを棚に上げて、 いい加減にしろよ。

 以下、ヨハネ黙示録18章 
 「さまざなな災害が、 死と悲しみと飢饉とが、一日のうちに彼女 (ローマ帝国の首都) をおそい、そして彼女は焼かれてしまう。 彼女を裁く主なる神は、力強い者なのだ。  彼女と姦淫を行ない、 贅沢をほしいままにしていた地の王たちは (傀儡政権のこと)、 彼女が焼かれる火の煙を見て、彼女のために胸を打って泣き悲しむ。
 大いなる都バビロンは、 このように激しく打ち倒され、 そして、まったく姿を消してしまう。 地上で殺されたすべての者の血が、 お前のために流されたからだ。」 (8節、9節、24節)

 黙示録の著者がこの文を書いてから、二千年たちました。 そしてまだ、同じ言葉をくり返す人が、世界に大勢います。 もっと増えているのかもしれません。

 黙示録の著者は、その本の最後に、 こう記しました。
 「私は、新しい天と、新しい地を見た。 そこでは、もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。 飢える者も、乾く者もいない。」 (21,4; 7,16)
 これは、彼が見た夢でした。
 我々にとっても、これはまだ夢なのでしょうか。

 第3回 「あなた方は何を悲しむのか」 (01年10月18日)
   多少の追記を加えました。

 この欄には、あまり現在の政治状況などについて書かないで、何となく日常感じたことを記す予定だったのですが、どうも次から次へといろいろ起こるので、やむをえません。今回もまた、政治的な事柄について書かさせていただきます。

 小泉靖国参拝についての抗議声明をのせようと思っているうちに (後述)、アメリカの例の事件が起こってしまいました。
 言い出したらきりがないけれども、最小限、これだけは言っておかないと。

 アメリカ人の大多数 (中にはごく少数ながら、かなりまっとうな人々がいるという事実は知っていますが、しかし、圧倒的大多数のアメリカ人) の、このところの、つけ上がり方の不愉快なこと、不愉快なこと。 お前ら、自分たちが何様だと思っているのだ!

 しかし、彼らのことはとりあえず置いておいて、どうして大多数の日本人の皆さんが、この際、まるで天地がひっくりかえりでもしたように、 「大きなショック」 を受けた、と称し、「こんな悲しい出来事はない」 と嘆き、 「一般市民の生命をこれだけ多数奪ったテロは許せない」 と息まき、アメリカ国内のスポーツ行事ならまだともかく、日本のスポーツ行事まで 「アメリカ市民のために」 黙祷なんぞをささげ……。

 確かに、そう思いたくなるのは無理もないほどの大きな事件には違いなかった。確かに、これは大きなショックを与える出来事には違いなかった。

 しかし、そのアメリカ人が、最近十年ぐらいだけを勘定しても、イラクその他で直接に、パレスチナなどで間接に、どれだけ多くの一般市民の生命を、空爆、イスラエルによる 「テロ」 攻撃その他で奪ってきたことか。その人数は、少なくみつもっても、今回のアメリカ人の犠牲者よりだいぶ多いでしょう。 ましてや、この半世紀間で生命を奪われたパレスチナ人、レバノン人等々の人数は、直接殺された人の数だけでも、それより桁違いに多かった。一桁どころか、二桁は違う。

 そして、生命を落としたのは、そのように直接の爆撃等の時にその場で生命を落とした人たちだけではありません。土地を奪われ、住む場所を失い、生産手段もなく、難民として辛うじて生きていても、その結果生じる困難から生命を失った人の人数たるや、とても数え切れるものではありますまい。しかも、アメリカは、イスラエルの軍隊による滅茶苦茶なテロ攻撃を露骨に後押しすることによって、パレスチナ人のその悲劇を、この五十年間、増大させ続けた最大の責任者ではありませんか。
 アメリカ人なら他人を何万人殺しても、 「事件」 にも 「テロ」 にもならないけれども、アメリカ人が殺されると、それは 「あってはならない」 恐ろしい事件になるのですか?
 いい加減にしろよ。

 今回の出来事に限って何だかあわてて、ショックを受けたり、大いに悲しんだ日本人の皆さん、あなた方は、今回とは比べものにならないほど大勢のパレスチナ人たちが、もっとはるかに理不尽で悲惨な仕方で殺され続けてきたことに対しては、同じだけの大きなショックを受けなかったのでしょうか。今まで、あなた方は、自分たちのこの地球上でこれだけひどいことが起こり続けているのに、極度に悲しむことはなかったのでしょうか。

 それをずっと、まったく何事でもないかの如くに平気で、何も感じずに過ごしてきた、そのあなた方が、どうして今回に限り、やたらとショックを受けたり、やたらと悲しんだり、黙祷したり、大騒ぎをしたりすることができるんです?

 冗談言うなよ。 あなた達にそんな権利はありはしない。今悲しみたかったら、どうして今まで悲しまなかったのだ。今ショックを受けるのなら、どうして今までショックを受けずにいられたのだ!

 我々は、今回の事件よりもはるかに大きなショックを、この五十年間、受け続けてきた。 我々は、今回の事件よりも、はるかに悲しいニュースに毎年毎年接し続けてきた。 心がつぶれるほどの思いをもって、世界で起こっている悲惨な出来事のニュースに耳を傾けてきた。それを止どめることのできなかった悔しさ。 そして、その殺戮行為を嬉しそうに自慢しているアメリカ人の不愉快さ……。

 * * * * * * *

 とりあえず、日本のマスコミのいくつかの言葉づかいに、文句をつけておきましょうか。
 「アラブ穏健派諸国」 という言い方。エジプトやサウジアラビアなどのこと。どうしてアメリカに従順でへつらっている国が 「穏健派」 で、アメリカを批判し、反対する国が 「過激派」 なんだ? アメリカの世界的テロと殺戮行為を手放しで支持し、支援することが、どうして 「穏健」 なのだ? せめて、「親米派」 「反米派」 と言ったらいかが?

 「国際社会」 。 日本のマスコミや自民党政府、国家官僚どもが言う 「国際社会」 とは、何だ? 何が 「国際」 だ? アメリカに協力することだけが 「国際」 で、アメリカに反対するのは 「過激」 なのか? いい加減にしろよ。 「国際社会」 なんぞと言わないで、せめて、「アメリカとその同盟諸国」 と言ったらどうなんだ。

 「パレスチナ過激派」 。 だったら、まずそのパレスチナ人の土地を奪い、殺すことによって、中東問題のすべての原因を作り、いまだに、その 「パレスチナ過激派」 が殺したイスラエル人の数百倍、数千倍ものパレスチナ人を殺し続けているイスラエル政府と、そこの人口の過半を数える右翼ユダヤ主義者たちを、何で日本のマスコミは 「過激派」 と呼ばないのだ?
 等々。いっぱいあります。

 * * * * * * *

 以下は、単なる憶測。 しかし、結構当たっている可能性の高い憶測。

 ニューヨークの事件のあと、アメリカ政府は、犠牲者の人数を、非常に控えめに発表し続けた。1週間ぐらいもの間だっただろうか。二百人とか、三百人とか。 そんなに少ないわけはないのに、なかなか人数をはっきり公表しなかった。
 その点は、大いに理解できる。 あれだけの出来事、犠牲者は非常に多い、とは言いたくなかっただろうし、自分たちは 「テロ」 に負けたわけではないよ、ということを示すためにも、人数を大きく発表したくはなかったでしょう。

 しかし、発表される犠牲者 (行方不明者) の人数が二千人を越えたあたりから、突如として、毎日千人ずつ増えていって、四日ほどのうちに六千人以上に到達した。

 つまり、ある日を境に、アメリカ政府は、犠牲者の人数を急激に増やす方向に転じたのだ。 今や、逆に、犠牲者が多ければ多いほど、自分たちの 「復讐」 行為がより多くの人に支持される、という風に考えるようになったのだ。 犠牲者の人数を多め、多めに発表することによって、これは未曾有の 「テロ」 事件だ、ということを、世界に印象づけようとした。

 これは、かつての戦時中の日本の大本営発表と同じ程度に、あまり信憑性のない数字ではないのでしょうか。

 現在のアメリカの軍国主義国家が、20世紀半ばの日本のファシズム国家とほぼ同質のものになっている現在、彼らの発表する数字に対して、我々は、かつての 「大本営発表」 と同じ程度のうさんくささを感じる権利はあるでしょう。

 アメリカ人の中には、良心的な歴史家も相当数存在している。今から50年ぐらい後に、彼らがこの数字の信憑性を改めて問題にする日が来るだろう。

 第4回追記。 その後、アメリカ政府は犠牲者の数を公式に数えなおしたらしい。 今では、ペンタゴンなどでの犠牲者も含め、かつ、行方不明者も全部数えて三千人強ということになっています。 さすが、この種のことには正確を期そうというアメリカらしい、と言っておきましょうか。
 しかし、最初の時期の発表の数字が世界中の人に与えた強い印象を消し去るのは難しいでしょう。 やはり、うまく情報操作をやった、と言われても、仕方がないでしょうね。

 * * * * * * *

 小泉靖国の問題について議論するいとまがなくなった。 これはまた、次回に。
 彼らは、既成事実を作ってしまえば、後はもう、終ったこととして、黙っていればすむ、と思っているのだろう。そうはいかない。我々は言い続けようではないか。

 一つだけ。
 オーストリア政府に、極右の政党の代表者が入閣した、というので、ヨーロッパ全土から非難され、「国際社会」 からも非難された。 困ったことだ。
 だが、我々がしっかり知っておかねばならないことがある。 戦後の日本に一貫して存在し続けた自民党政権は、今回のオーストリアの極右政党とほぼ同質の存在だったということを。
 岸信介は、戦犯だった。それが総理大臣になった。 オーストリアの極右と言っても、戦犯ではない。日本の方がもっとはるかに極右政府だったのだ。
 中曽根某は、中国侵略の際のエリート将校だった。 ずい分とうさんくさい侵略政策の直接の実行責任者の一人だった。それが総理大臣になった。 そして、靖国に参拝した。 現在のオーストリアの極右は、そこまでひどくはない。
 石原某都知事がしゃべりまくっていることと比べれば、オーストリアの極右の方がはるかに穏健に見える。 この男をオーストリアに連れて行ったら、極右どころか、極々右に見えるだろう。

 ヨーロッパでの極右の動向のニュースに接するたびに、多くの日本人は、これは困ったことだ、と思って、眉をひそめる。
 しかし、その多くの日本人のうち、何%が、自分たちの政府の方がもっとはるかに極右だ、という事実に気がついているのだろうか。

 極右は、少数だから、極右に見える。 国民の多数がそれと同じ心情を持つ時、それはもはや 「極」 には見えない。 「極」 どころか、「右」 にさえ見えなくなってしまう。 一億総動員の偏向は、偏向が正常だと思わせる機能がある。
 それがファシズムというものだ。


以下は第2回 「是非善悪を判断する能力」 (01年7月15日) です。

 近頃の刑事裁判とそれをめぐるマスコミの論調で、すでにかなりその傾向が強くなっていましたが、池田の小学校の事件でますますひどくなりました。
 つまり、犯罪者が犯行の時点で 「責任能力」 (是非善悪を判断する能力) に欠ければ、無罪になる、という例の理屈です。

 これは奇妙ではなかろうか。そのおかげで、少なくとも、精神病者に対する差別が、ひどくなっているのではないでしょうか。
 考えてもみて下さい。汚職国会議員や汚職高級官僚は (もちろん、はっきり汚職として摘発されていない、うまく 「合法的」 な格好をととのえて、ごまかしている連中の方がもっと罪深いのですけれども)、 まさに 「是非善悪を判断する能力」
に欠けていたから、平気であのような犯罪を犯し、相変わらず犯し続けているのではないでしょうか。
 「是非善悪を判断する能力」 に欠ければ無罪というのなら、あの連中、みんな無罪になってしまう。

 いえ、まあ、冗談は別として (もっとも、皆さん、これを冗談だとはお思いにならなかったでしょうし、私も別に、気の利いた洒落を言っているつもりではなく、本気で腹が立っているのですけれども)、 一般的に言って、大部分の犯罪は、その犯行の瞬間においては (あるいは、そこに到り着く過程においては)、 その人物は是非善悪の判断を見失ってしまっているからこそ、常軌を逸した犯罪を犯すことができるのではないでしょうか。
 偶発的な、事故みたいな出来事を別とすると、大部分の犯罪はそういうことなのだと思います。

 問題は、ですから、そういう時に (あるいは汚職議員や官僚の皆さんのように、ずっと長いことかかって)、 是非善悪を判断する能力を失ってしまうような、そういう生き方をしてきたことに対して、責任が問われるのではないでしょうか。

 ところが、今の裁判では、特に弁護側は、犯罪の事実が明白であり、容疑者に言い訳の余地がない場合には、「無罪」 をかちとるために、何とか精神鑑定に持ち込み、精神異常であれば責任能力がない、と言い立てようとします。その論理に裁判所もマスコミものってしまっているから、検察側はそれに対して、「いや、精神異常ではなかったのだ」、と立証しようと努めることになります。
 このようにして、両側が協力して、この論理を世間に流布する作業をやっているのです。
 それをマスコミが増幅する。

 これは、精神病者に対して失礼ですよ。
 この論理が立っている前提は、精神病者であれば必ず 「是非善悪を判断する能力」 に欠けているのだから、いつ何時、とんでもない犯罪を犯すかもしれない、しかも御本人は、それが悪いと思っていないのだから、どうにもならない、ということです。 → だから 「無罪」 だ、という。しかし、弁護側が、夢中になって、「だから無罪だ」 と主張するたびに、世の中のすべての精神病者に被害が及ぶ、ということに気がついているんでしょうか。

 この論理が通るのなら、精神病者はみんな危険だ、ということになってしまいます。
 そこから、池田の小学校の事件以来特に強くなってきた意見は (小泉内閣の危険性の一つでもありますが)、 「精神病者は危険だから、隔離せよ」 という意見です。

 しかし、よくお考えになって下さい。大多数の精神病者は、精神病を病んでいるその最中においても、十分に是非善悪を判断する能力を持っているのです。
 私は、大学の教師であり宗教学者であるという仕事上、かなり多数の精神病者とかかわってきました。そして、私の知っている精神病者はみんな、むしろ他の人たちよりも、はるかに是非善悪の判断に関して、敏感です。非常に敏感であるからこそ、しばしば、ほかの人よりも心理的な負担が非常に大きく、そのせいで病気になったりするのです。そういう人たちを多く見ていると、精神病者は是非善悪の判断に欠ける存在だ、という今時の裁判の論理には、非常に腹が立ってきます。

 現に、今や、数多くの精神病者が、池田の小学校の事件以来、この論理が非常に幅をきかせてきたせいで、安心して精神科の医者に通うことができなくなりつつあるではないですか。世間の無責任な眼が、彼らは是非善悪の判断に欠けるから、何をしでかすかわからない恐ろしい人間だ、などとささやいて、彼らを村八分にしようとするからです。

 精神病でない人たちのことを考えてみて下さい。本当は、事情は同じではありませんか。
 是非善悪の判断に欠ける人たちが、国会議員になると、汚職をするのです。是非善悪の判断に欠ける人たちが官僚になると、汚職をやらかすのです。いや、もともとはその能力があったのかもしれないけれども、国会議員や官僚を長年やっているうちに、是非善悪の判断力が摩滅してきた、ということもあるでしょう。とすると、彼らのその環境が問題なのですが、だからとて、環境のせいで是非善悪の判断力に欠けたから、無罪にする、ってなわけにはいかないでしょう。
 同じ環境に置かれても、同じ犯罪を犯さない人も大勢居るんですから。

 それとまったく同様、精神病だから是非善悪の判断に欠けるのではなく、何らかの事情で、是非善悪の判断に欠ける人が精神病にかかった時に、それが表に出て来た、というだけのことです。その人は、精神病にかからなければ、ほかの形で是非善悪の判断に欠けることを示していたことでしょう。

 もしも、犯罪に対して刑罰が必要であるのなら (今の世の中、ほかの手段は結局だれも思いついていません)、 犯罪者が精神病であるなしに関係なしに、同等 ・平等な刑罰に服すべきでしょう。
 そして、刑に服した犯罪者は、ましてや裁判中の容疑者であればなおさらのこと、病気であれば、病気の治療を受ける権利があります。犯罪者ないし容疑者が、盲腸炎の発作を起こしたら、当然、しかるべき仕方で入院し、適切な治療を受けるでしょう。ならば、精神病者も、受刑中であれ、まして裁判中であれば、自分の病気の適切な治療を受ける権利があるんです。

 それと、裁判とは、別の話です。みんな平等の条件で、裁判を受けるのが、正しい裁判というものでしょう。

 精神病は、病気なんです。盲腸炎や、歯痛や、ほかのすべての病気が病気であるのと、同じことです。重い軽いの違いがあっても。病人は、病気の治療を受ける権利があります。けれども、いけ図々しく汚職をくり返す連中が、糖尿病にかかったとしても、病気の治療を受ける権利はあっても、そのことによって、汚職の免責がなされるわけにはいきません。
 まして、糖尿病の人間はみんな汚職を犯す危険があるから、公職追放せよ、などということは、誰も言わないでしょう。
 病気であるなしに関係なく、責任能力を欠如した人たちだからこそ、裁判において責任を負ってくれないといけないのです。

 なまじ、「精神鑑定」 によって 「無罪」 をかちとろう、なんぞとするから、かえって、彼らは精神病の正当な治療を受けることもできなくなってしまいます。

 こういう仕方で、大多数の、比率からすれば圧倒的多数の、是非善悪の判断を敏感に持っている精神病者に対するひどい差別、いわれのない蔑視がひろまることが、非常に危険なんです。
 ファシズムが強くなると、精神病者に対する蔑視が進む、というのも、残念ながら、歴史の法則のようです。


以下は第1回 「今の日本はこわい」 (01年6月10日掲載分)です。

 そりゃまあね、あの森さんの後だから、誰が出てきても、比較の上である程度人気はでるだろう。しかし90%に近いとなると、異常である。異常を通りこして、ひどく危険である。だから、今の日本は、こわいのだ。
 何だろうとかんだろうと、みんなが一斉に同じ方向に向く。向かない奴を排除する。

 歴史の教訓。汚職と腐敗にまみれた政治体制がある程度つづくと、その後にはファシズムがやってくる、というのは、残念ながらかなりな高率で、歴史の法則みたいなものである。

 マスコミでさえも、小泉は改革改革と言いながら、実際は何もしない、と多く指摘しているではないか。やる気まんまんなのは、靖国参拝と、集団的自衛権と称する軍隊の海外派兵だけではないか。それ以外に、具体的に何があるというのか。

 構造改革と称しながら、実は、橋本派がにぎっていた利権の部分をつぶそう、という試みばかりだろう。橋本派の利権はつぶすが、森派等の利権には手をつけないよ、という。官僚どもの利権についてさえも、ちっとも手をつける気配がないではないか。要するに、改革と称する自民党内の利権争いにすぎない。

 聖域なき改革、痛みをともなわない改革はない、などとおっしゃる。嘘をつけ。本当にそういうことを言いたいのなら、まず自分たちが痛んだらどうなんだ。自民党ほかの国会議員どもの利権のからくりや、高級官僚どもの利権のからくりや(まず彼らの高すぎる給料と、天下りのシステムと、退職金の何重取りと、等々を削ってくれよ)、圧力団体の利権と、等々に本気になって手をつけてくれよな。

 いやさ、国家財政の赤字を何とかしよう、というのは大いに評価してあげよう。しかし、だな、現在多額の税金を滞納している連中からきっちり全部徴収してくれたら、それだけでも国家財政はずい分と救われるんだぜ。さんたら、誰が多額滞納者か知ってるんだろ。そこにはちっとも手をつけないでおいて、弱いところからばかりしぼり取ろうとする。

 とどのつまり、「痛み」と称して、収入の少ない庶民からもっとしぼり取ろう、というだけではないか。その典型が医療費に関する小泉の国会での発言である。医療費の国庫負担が莫大な赤字である、何とかしなければならない、というところまでは結構。何故、赤字か。今、数多くの悪徳医者 (医院) が、やってもいない治療をやったことにし、不必要な薬や検査を乱発し、等々で、大量の無駄 (無駄ではない。本当は汚職なのだ) をたれ流しているではないか。それがまた、患者だけでなく、良心的な医者をも圧迫する。そこに手をつけないでおいて、庶民の医療費だけを値上げしよう、という。それで、「改革には痛みをともなう」 とは何事だ。改革なしの痛みの押しつけではないか。
 せめて、必ずカルテと医療費明細を患者に発行することを義務づけてくれよな。今時、どこの企業が、ある程度の明細を伴う領収書を発行せずにすませている? 医者だけが、儲けの中身を全部隠しているではないか。医師会の反対を押し切ってそこまでやってくれたら、まあ多少医療費を値上げしてくれてもいいけどね。しかし、それをやったら、多分、我々の医療費を値上げせずにすむはずだぜ。

 等々。
 確かに、ハンセン病患者の勝訴に対し、控訴を取りやめたのは、評価できる。しかし、それをやるんだったら、何故、水俣病患者の勝訴については、控訴したままにしておくのだ。そっちの取り下げを申請してくれたら、信用してやってもいいけれどね。
 よく考えてもみてくれ。ハンセン病については、確かに、彼らが病気になって以後については、国家が彼らの人権を奪ってきた。しかしそれは、戦前からの法律をほっておいただけであって、要するに、変えるべきことを変えなかった、という責任にすぎない。患者が病気になった点そのものは、国家が直接関与しているわけではない。それに対し、水俣病は(ほかにもいくつもある)、国家が直接彼らの健康を奪ったのだ。
 つまり、国家の犯罪性は、水俣病については、更にもっと大きい。だからこそ、国家官僚どもは、その責任を認めたがらない。だからこそ、そこのところをはっきりしてもらおうではないか。

 官房機密費の使い道について、つい先日テレビで語った内容まで、「忘れました」の一点ばりで、ごまかして通そうとした塩川なにがし。これだけ国会と国民を愚弄した答弁を平気で続ける大臣は、今までの国会であってさえも、野党は問責決議ぐらいはつきつけ、この男が大臣をやめるまで国会審議を止めさせただろう。マスコミも、これが森内閣の当時だったら、また無責任な失言だというので、袋叩きにしただろう。
 それが、何だ。小泉内閣の大臣だというので、今や国民の間で人気急上昇中だと! 
 所詮、自民党の閣僚だ。ひどい奴がいても不思議ではない。しかし、問題は、「あの爺さん、かわいい!」 とか言って、人気をもり立てる国民の側にある。

 だから、今の日本は危険なのだ。

 小泉が首相になったら、世論調査によれば、国民の60%近くが、総理大臣の靖国参拝に賛成、となった。これが最も危険である。
 日本国民の皆さん。我々日本人が、かつて、まわりの国々に軍事侵略をした、それもちょっとやそっとの規模ではない。その問題について、どう考えているのだ。いや、どう考えているという以前に、その事実をしっかりと知っておいでなのか。日本のまわりの国々の人々は、そのことを忘れていない。忘れていないどころか、まだその時の痛みを、精神的にも物質的にも、肉体的にも、かかえて生きておいでになる。この事実を前にして、靖国参拝賛成が60%近いとは何事だ。
 この巨大な経済力を持った国の国民が、自分たちのやったことも、やりつつあることも、世界の状況も、何も知らずに、おめでたく 「日本」 の利益だけを考えて、一億総動員でつっぱしろうとしている。その 「日本」 は、実は我々日本の庶民からもしぼりとって、一部の特権階級の懐を肥やす機構にすぎないのに。

 だから、今の日本は、こわい。
 お願いだから、もうちょっと、ものを考えてくれないかしらん。 (2001年6月7日)

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