今 日 の 一 言

第11回 その1 下手な文章書き
          その2 人間にレッテルを貼るな
     2009年4月29日

 この欄のもともとの目的は、日常生活の気軽な雑感を気の向くままに書き留めておこう、というつもりだったのですが、どうも、世の中、次から次へと腹の立つことが生じるものだから、ついつい、そちらの方向に対してものを言いたくなってしまって、なかなか気軽な日常の雑感にはなりませんでした。
 今回から、多少そういった感じで書くことにします(その1)。
 及び、せっかく返事を書いたのに届かなかったMHさんへの返事。ただし詳しく書き足しました(その2)。

 その1 下手な文章書き

 本を書くのを仕事にしている人間がこういうことを言うのもどうかと思われるが、私はともかく文章が下手で、自分で嫌になってくる。 その欠点にもかかわらず本を書き続けてきたのは、書くべき内容、人々に知らせたいこと、お知りいただきたいこと、がいろいろあるからだが、しかし、いくら書いても、文章が下手だという欠点は、なかなか変らない。
 しかし、もちろん、私は文章は下手ですから、内容だけお読み下さい、などと言って、居直るわけにもいかない。本を書いて、多くの読者にお読みいただくのであるから、中身については自分で責任を取るより致し方ないが、文章の上手下手でもって読者に面倒な思いをおかけするのは申し訳ない。

 それで実は、もうだいぶ以前からだが、自分なりに、何とか文章を改善したいと思って、努力してきた。
 特に、ただでさえ文章が下手なのに、長年の外国生活の結果 (特に1972年から77年までは長かった)、ふだん日本語を使わずにいると、どうしても日本語の実力が落ちる。すでにその前から、『イエスという男』 や 『批判的主体の形成』 の元になる雑誌原稿を書いていた頃(70年〜72年) から少しずつはじめていたのだが、77年の帰国後は、特にこの努力を多くするようになった。それでも、多少ましになってきたのは、ようやくこの10年ぐらいだろうか。

 どういう方法かというと、
  第1に、上手な文章を書こうとは思わないこと
  第2に、下手でもいいから、お読みいただいて、すらすらと通じる文章を書くこと
 の2点である。

 実はこれには前歴がある。私はともかく字がひどく下手だった。中学生の頃は、1学年150人のうち、下から数えて5番目以内に入るほどだった。
 最初のうちは、どうせ下手なんだから、かまうものか、と思っていた。そんなのは、生れつきなんだから、しょうがないではないか。

 しかし、中学3年頃から、いずれ大学入試の時になって、字が下手だから答案を読んでもらえなかったらどうしよう、と心配になってきた。
 それで考えついたのが、上記の二つの方法である。

 どうせ下手なんだから、上手な字、人様に感心してもらえるような字を書こう、などと余計な背伸びはしない。
 大学受験用なんだから、芸術的に下手な字だってかまわないので、採点者が、明快にすらすら読んでくれる字を書けばいいではないか、と。
 というわけで、一字一字、ともかく、人様に読みやすいようなはっきりした字を書こう、と努力した。
 幸い、大学受験には間に合って、無事合格しました。

 この努力の甲斐あって、今でも、急いで書く時はまるでさまになっていないが、丁寧に書く時には、まあまあ人様に読んでいただける程度の字になっている (近頃は、パソコンのせいで、筆記文字はまただいぶ下手になってきたが)。
 まあ何とかまともな字を書けるようになった証拠に、最近いつも宅急便を出しに行くお店のおばあさんが、私が書く伝票の字が何となく記憶に残っていて、読みやすい字だものだから、彼女の記憶の中では私の伝票は印刷した字だと思い込んでしまわれた。それで先日、「あんた、いつも伝票をきれいに印刷して持ってきなはるね」とおっしゃって下さったものだ。なに、一字一字丁寧に書いているだけである。運送屋さんに、一目でわかっていただくために。

 それで、字の書き方を、今度は、文章にも応用しようと思ったのである。
 下手でもいいから、ともかく、すらすらと通じる日本語を書こう、と。
 読者がお読み下さる時に、すらすら通じる限りは、すうっと読み通して下さる。内容については、いろいろあろう。賛成も反対も、おや、そうかしら、とか、ほかいろいろあろうが、それ以前に、そもそも文章が通じないのでは、どうもしょうがない。私の文章の中身について読者が御意見をお持ちいただくためには、そもそも、文章として意味が通じなければ仕方がない。

 そこで、原則。
 読者がお読み下さる時に、日本語の意味が通じにくくて、そこで読者の眼が立ち止まり、何だかこの文わからないね、と、もしも1秒でもひっかかったら、それは私の文章が下手なせいである。すうっと気持よく眼が流れていかずに、1秒でも読者に余計な時間を使わせたら、それは著者として責任を果したことにならない。
 この1秒が、私が文章を書く時の基準である。基準というか、努力目標である。

 もちろん、言うのは簡単だが、これは実際には難しい。毎度のことながら、満点にはほど遠い。しかし、常にそのように心がけて文章を書いていれば、少しずつでも向上していくだろう……。 と思った。

 すらすらと通じれば、読者は、文章の流れ自体は気にかけずに、すぐに中身の方に気を向けて下さる。
 いわば、道を歩いていて、良い道だと、自分の足どりを一歩一歩気にせずに、まわりの景色を見たり、歩く方向のことに気をつかったりしながら、歩くことができる。しかし、道が凸凹で、あちこちにひっかかりがあったり、水たまりがあったり、何だかんだがあれば、足下の一歩一歩ばかりを気にしないといけないから、景色どころではなくなる。
 そういう意味で、読者が文章にひっかからずに、中身にだけ目を向けていただけるような、そういう文章を書きたい、ということである。

 もちろん、そうすると、都合が悪いこともある。足下の一歩一歩が気にならなくなれば、人は景色を良く見る。景色ならいいけれども、本であれば、中身がよく見える。よく見えるということは、中身の欠点も、すぐに読者の目にさらされてしまう。それに対し、凝った文章を書けば、中身をごまかせる。
 しかし、せっかく書いているのだから、ごまかしたくはない。中身をそのまま、すんなりと見ていただければ、読者は賛成も反対もなさるだろう。
 何を言っているのかよくわからないから、賛成とか反対とかということにもならない、などという文章をお見せしたって、しょうがないではないか。

 だから、中身は、当然のことながら、その中身に応じて、極めて複雑であったり、いろいろあるけれども、文章は、できる限り平明に、単純明快に、素朴正直に、すっきりと。

 と、まあ、こういうことだが、しかし、言うは易く、行なうは難し。私の力量では、この目標を追うのは、まことに難しい。それで、もう一つの原則。
 どうせ下手なんだから、無理をして一回で良い文章にしようと思うな。
 実際、私の原稿は、最初の第1稿は、ほかの方がお読みになったら、とても意味が通じない程度の代物である。いや、わざわざ下手な文章を書こうとしているわけではなく、自分としてはすらすら通じる文章を書こうとしているつもりなのだけれども、結果はやはりこんなものである。

 それで、これを本で発行するのと同じ割付けに整えてからプリントアウトし、いったん忘れた頃に、これですらすら通じるかどうか、読み直す。読み直し10回である。あの部厚さの本、10回も読み直し、書き直すのは、相当な体力と時間を要する。最初の3、4回ぐらいまでは、どの頁も行間、欄外が修正の書き込みで真っ赤になる。出発点の文章は影も形もなくなるほどである。
 やっと5回目ぐらいから、ようやく、各頁ごとに数ヶ所十数ヶ所程度の修正ですむようになる。それでも、赤字の書き込みをもう一度パソコンに入力する手間もかなり大変である。ようやく10回目ぐらいで、まあまあかな、となる。しかし本当は10回でやめたくはないのだが、いつまでやっていてもきりがないから、あきらめて、10回で印刷屋さんに出す原稿とする。
 もっとも、本を出す時には、このあきらめも重要である。より良くしようと思ったら、きりがないからだ。最後は、どうせこのあたりが私の力量です、と居直るより仕方がない。これはまあ、どこかでけりをつけないと、無間地獄だから、致し方ない。

 それでも、本が出たら、1年ぐらいは、その本を手に取る気は起こらない。どの頁にせよ、ぱっと開けると、自分の文章の下手さ加減がすぐに目にとびこんでくるからだ。

 念のため、10回読み直すのは、市場に売りに出す書物の場合だけです。たとえばこの「今日の一言」は3回しか読み直していません。その分だけ、文章がなめらかでない。すみません。

 以上、御自分の文章が下手だと思っておいでの若い方々に、多少のヒントになれば幸いである。
 要するに、下手な奴は時間をかけろ、ということです。


 その2 人間にレッテルを貼るな (MHさんへの返事)

 まずMHさんの短いメールを紹介しておきます。

  「荒井献氏の最近書かれた本に、(田川は)マルキスト(である)とあったようですが、本当でしょうか?
  別にいいのですが、思想的背景が知りたいので……」

 今更、荒井献が何をどう言おうと、どうせ中身のない無責任な御仁なんだから、ほっておけばいい、というのがこの御質問に対する私の返事だが、しかし、それじゃあまりに無愛想だから、一応書いておく。

 私はもちろんマルクシストです。私はもちろんマルクシストではありません。
 それは、私がもちろんクリスチャンである、というのと同じことです。それは、私がもちろんクリスチャンなんぞではありません、というのと同じことです。

 だいたい、今時、こういうレッテルを貼って、人間を判断しようとするのが間違っている。

 いつも言うように、キリスト教の世界にはくだらない奴が多く (立派な人も多いけれども)、実に低劣な党派意識にこりかたまって、自分たちのけちくさい仲間以外は排除しようとして騒ぎ立てる (これも、キリスト教に限らず、あちこちに見られることであるが)。そういう奴らが、ろくすっぽキリスト教の何たるかも知らないくせに、いい気になって、田川はクリスチャンではないから、あんな人の本を読んではいけません、などと言い立てるのに対しては、私は申し上げる、私の方があんたらよりははるかにクリスチャンだよ、と。少なくとも、彼らよりもキリスト教をはるかによく知っているという点で、そして、彼らみたいに人を排除したりしないで、意見が違ってもみんな仲好くお互いに耳を傾けましょう、と言っているという点で。その他いろいろ多くの点で。

 他方、キリスト教のことをまるで御存じない方々が、キリスト教について嘘みたいに勝手なイメージをお作りになり、クリスチャンというのはかくかくしかじかのことをしなければいけないんでしょう、とか言って、その勝手なイメージをクリスチャンに押しつけようとすることも多い。そういう場合には、私ははっきり、私はあなたがお考えになっているような意味での変ちくりんな 「クリスチャン」 なんぞではありません、と申し上げる。

 マルクス主義についても同様である。

 私は、これまで何度か、私はマルクス主義者である、とはっきり明言したことがある (ただし、いわゆるマルクス主義を称する人々の集団に首をつっこんだことはない)。確かに、カール・マルクスのお書きになっていることの中で、学ぶべきことはいろいろ沢山ある。その多くの事柄を、何も読まず、何も知らないままに、現代世界から葬り去ってしまうのは、あまりに惜しい。惜しいどころか、今、それを学んで生きる意味は大いにある。

 しかし他方、世の中では、マルクスの書いたことをまったく読んだこともなく、知ることもない連中が (荒井献みたいな奴、と申し上げておこうか)、知ったような顔をして、「マルクス主義」 というレッテルを、相手に貼り付け、それでもってその相手にけりをつけたようなつもりになっている。これは、どちらの側についても、まるで間違っている。カール・マルクスを何も知らないくせに、マルクスの名前を滅茶苦茶な他人排除のレッテル代りに用いている、という点で。そしてまた、その相手のことを何も理解しようとせず、その相手とはまったく関係のない 「マルクス主義」 などという中身のないレッテルを貼り付けてわかったような顔をする、という点で。つまり、マルクスに対しても、その相手に対しても、失礼極まりないのである。
 そういうつまらない奴らが、「マルクス主義」 という単語を中身のない悪口のレッテルとして用いようとする時には、私は、カール・マルクスの名誉のために、私はマルクシストだ、とはっきり申し上げる。マルクスという歴史上実在した人物は、あなたなんぞが何も知らずに貼っているレッテルとはまるで無関係な、極めてすぐれた存在なのだ、ということをお知りいただくために。

 他方では、確かに、一頃までは、マルクス主義を自称するしょうがない教条主義者が大勢いらっしゃった (こちらもまた、すぐれた人も大勢いらっしゃったが)。カール・マルクスとはまるでかけ離れたソ連崇拝 (それも、ソ連の国家権力の崇拝)、あるいはスターリニズムと呼ぶか、あるいはむしろエンゲルス主義とでも申し上げるか、あるいはむしろ、そのどちらでもない、ただただ硬直した、これまた単に自分たち以外をやたらと排除するためだけの党派的看板として用いる 「マルクス主義」 とか。

 そんなものと、カール・マルクスは違うよ。

 そういう意味では、私は、もちろん、まるでマルクス主義者ではない。マルクシストでもない。もちろん、奇妙な片仮名の 「マルキスト」 なんぞというものではない。
 いや、もちろん、カール・マルクス自身、その意味では、まるでマルクシストではなかったけれども。
 イエスがクリスチャンではなかったのと、同じことである。

 そんなどうでもいい議論はほっといて、カール・マルクスが書いたものを読んでごらんなさいな。歴史の現実を知るというのはどういうことであるか、その基本姿勢をいろいろ学ぶことができるから。
 もっとも、残念ながら、これも新約聖書と同じこと、日本語訳のマルクスがいつも正確な翻訳だとは限らないけれども。原文で読んだら、あれ、マルクスってこんな面白いことを言っていたの、ということになる。しかしそれでも、新約聖書の諸訳よりは、だいぶ信用できるけれども。そりゃまあ、1世紀じゃなくて19世紀なんだから。

 だいたい、いわゆるマルクス主義者が間違っていたのは、カール・マルクスの書いた文章をすべて金科玉条の、まさに 「聖書、正典」 としてまつりあげて、一語一句間違いのない絶対的権威だと思ってしまったところにある。そういう具合に神棚にまつりあげたら最後、現実に存在しているマルクスの文章を理解することなどできなくなってしまう。
 彼にももちろん、さまざまな偏見、偏向、間違い、等々は満ちている。もっとも、歴史的過去の人物について、「間違い」 というレッテルを軽々しく貼るのは間違っているが。我々とは違う状況の中で生きているのだから、その状況を考慮して理解すべきである。しかし、そうではあるが、神棚にまつりあげてはいけない。いろいろ欠点も多いのだから。
 しかしまさに、他人の長所を理解しようと思ったら、その欠点も正直に認めなければいけない。

 これまた聖書を読むのと同じことである。新約聖書は 「神の言葉」 であって、そこにはいかなる間違いもなく、深い深い真理に満ちているのであります、などと、安っぽい、歯の浮くような説教はもうやめときなさいな。だいたい、歴史上存在した人間の書いたものである。人間の書いたものは、いろいろある。まさに、すぐれた長所もあれば、実にくだらないことも、しばしば有害なことも、新約聖書には何でも満ちている。
 しかし、いろいろくだらないことがあるからとて、それなら放棄しましょう、などと短気になってはいけない。だいたい、百%あがめたてまつるか、百%くだらないとみなして放棄するか、などというあれかこれかは、あまりに幼稚すぎて、お話にならない。人間の歴史的事実というのは、もっと複雑なものだ。

 宣伝になるけれども、何なら、今度発行する 『新約聖書・訳と註』 の第4巻をお読みあそばし。使徒パウロが歴史上果した功績は大きい。しかしこの人物がどれほどくだらない偏向と、自己中心の幼稚さと、安っぽく威張りくさり、しょうがない民族優越意識をふりまわし、等々。あるいは、擬似パウロ書簡の、たとえばいわゆるエフェソス書簡のどうにも嫌ったらしいユダヤ人優越意識だの、牧会書簡の、まさにくだらない正統意識と安物道徳の展覧会だの……。そういう歴史的実態を正直に見ることをせずに、神棚にまつりあげて、有難や有難や、なんぞとやっていたのでは、キリスト教は堕落するばかりではないか。

 しかし他方、そういったさまざまをはらみながらも、そのキリスト教が古代西洋世界の多くの人々に喜んで受け入れられていった長所は何なのか、それをしっかりと見極める目がなければ、せっかくの人類の重要な遺産が失われることになってしまう。新約聖書は、批判的に読んではじめて、十分に生きた存在になるのである。

 さて、話の出発点にもどって、最もくだらないのは、他人に、こういったレッテルを貼り付けて、わかったようなつもりになる、という神経である。
 だいたい、荒井献のように、マルクスのマの字も知らず、マルクスの書いていることをまるで理解したこともない、理解どころか、ろくすっぽ読んだこともない人間が、他人にむかって、あいつは 「マルキスト」 だ、などとレッテルを貼ってみたところで、そのレッテルに何の意味がある? そんなことを言う前に、荒井君よ、君も少しはまともになって、静かにおとなしく、マルクスの本を読んでごらんになったらいかが? まあ、荒井君にはとても理解できないだろうけれども。自分で自分に目隠しをしているような奴は、他人の文章を理解できないものである。

 もう少し根本的に言うと、そもそも、他人に (自分に対しても同じことだが)、この種のレッテルを貼ってわかったようなつもりになる、ましてやその相手にけりをつけたようなつもりになる、そういう姿勢そのものが最も愚劣な姿勢なのである。

 人間存在というのは、私であれ、ほかの誰であれ、「マルクス主義者」 だの 「クリスチャン」 だの、何だのかんだのというようなレッテルを貼ってわかったようなつもりになるわけにはいかないものである。一人の人間存在は、そういったレッテルよりはるかに大きな存在である。はるかに大きいどころか、あまりに桁違いで、比べるのも無理なくらいのものである。

 人間が一人存在する、というのは、その程度に、大きな、尊厳のあることである。

 それを、一枚のレッテルでけりをつけよう、などというのは、不遜にもほどがある。不遜と言って悪ければ、間抜けにもほどがある。
 それは、「クリスチャン」 とか 「マルクス主義者」 とかに限らない。どんなレッテルであれ、人間にレッテルを貼ってわかったようなつもりになってはいけない。

 言っておくが、田川建三は田川建三だよ。あんたらの頭の中にあるちっぽけな 「クリスチャン」 だの 「マルクス主義者」 だのといったせせこましい枠なんぞに入りきれるはずがないだろう。
 田川建三だけではない。誰でもみんなそうなのだ。みんなそれぞれ、まことに大きな、その人以外ではありえない、大きな存在なのだ。
 間違いなさんな。


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