『新約聖書・訳と註』 第2巻下 使徒行伝
添付地図の特色について
本巻添付の三つの地図のうち二つは、単に、簡単な地名地図がくっついていれば、お読みになる時に便利だろう、という程度のものですが、三つ目の
「地中海世界」 の地図には、ほかではめったに見られない大きな特色があります。
一見ごく小さな特色で、言われなければ何もお気づきにならない程度のことですが、実は、根本的な問題にかかわるものです。
第一は、地中海世界の地図に、地中海南岸のアフリカ大陸北岸を、ずっと西の端のカルタゴまで付け加えた点。これなら、地中海世界東半分の全体が一目で見渡せる。
これは、ほかの聖書地図では、まず類例を見ません。聖書地図でない一般の地図でも、意外と、こういう構成で、一枚の地図の中に地中海北岸と南岸
(パレスチナ南部からずっと西のカルタゴまで) を同時に入れているものは、そんなに多くはないと思います。
何故か。アフリカ大陸北岸なぞ、西洋世界の部類には入らない、と思っている人が多いから、聖書地図を作成する時も、せいぜいのところエジプトを入れるだけであって、それより西のキュレナイカ、シュルティス湾一帯
(主として今日のリビア)、そしてカルタゴを中心とした地方 (主として今日のチュニジア)
などは、のせないのです。
日本聖書協会発行の聖書地図帳や、英語で発行されているさまざまな聖書地図帳は言わずもがな、ネストレ新版でさえもせいぜいのところシュルティス湾の東の端っこまでをちょこっとのせているだけで、シュルティス湾の大部分やカルタゴはのせていません。さすがにネストレ旧版はシュルティス湾までは全部のせていますが、カルタゴはのせていません。まるで、シュルティス湾西側大部分やカルタゴは、「聖書の世界」には存在しないかの如くなのです。それじゃ、カルタゴからイタリア半島まで、実は目と鼻の先であって、非常に容易に行き来できる、という事実がわからないじゃないですか。
新約時代にあっては、地中海世界は全体が一つの大きな経済圏、文化圏であって、全体が相互に密接に交流していたのです。その交流の中で、キリスト教が地中海北岸
(小アジアからギリシャ、そしてイタリア半島) だけでなく、南岸 (エジプトからキュレナイカ、そしてカルタゴ)
へと、あっという間に広がって行ったのです。
それなのに、聖書地図と称して、パレスチナ、エジプト、小アジア、ギリシャ、イタリア半島だけしかのっていない地図を作っても、欠陥地図としか言えません。重要なキュレナイカ、カルタゴを同じ一枚の地図の中で見ることができなければ、どうしてキリスト教があれほど早くキュレナイカやカルタゴに伝わったのか、一目で理解することができません。
今回の私の地図で御覧になると (海岸線の細かいところなど、まったく適当に線を引いただけですが、重要な都市の位置はすべて書き込んであります)、たとえば、カルタゴとイタリア半島は目と鼻の先である、という事実が、すぐにおわかりになるでしょう。
そしてまた、エジプトやキュレナイカからイタリア半島に渡るのは、ギリシャを経由するよりも、直接船で行く方が早い、ということも。それなら、キリスト教がローマに伝わったのは、ギリシャを経由するとは限らないので、エジプトないしキュレナイカから直接海を渡ってイタリア半島に到達する可能性の方が大きい、ということも。
そして、キリスト教のような社会的宗教的運動が流布する時は、エジプトから順に地中海南岸をたどって (陸地から大きく離れることをせず、港から港をたどればいいのだから、航路としては楽である。ないし陸路を少しずつたどるか)、カルタゴまで伝わるのはたいして難しいことではなく、カルタゴからイタリア半島へ (ないしイタリア半島からカルタゴへ) はすぐに伝わっただろう、ということも。
そしてそれなら、イタリア半島にキリスト教が伝わったのは、北回り (小アジア、ギリシャ経由)
よりも、南回り (エジプトないしキュレナイカ経由) の方が容易だった、という事実も、一目でおわかりにはずです。
事実、キリスト教は、パウロがギリシャ半島に伝えるよりもずっと早く、ローマに伝わっていました。初期キリスト教の普及は、パウロ系以外の方が、このように活発だったのです。(詳しくは巻末の
「解説」 参照)
地図一枚の作り方だけで、その社会と文化の動きを見る目がまるで違ってくるのです。
第二に、これはますます一見ごく小さい指摘にすぎませんが、イタリア半島の東南端に
Brundisium の位置を、バルカン半島の西岸に Dyrrachion の位置を書き入れておきました。この二つの町が、何故、従来の聖書地図には書き入れられていなかったか。
理由は単純です。聖書学者、神学者の皆さんは、聖書しか読まないからです。この二つの地名は、「聖書」 には出て来ない。
しかしまあ何と、聖書の世界を知るのに、聖書しか読まない、などという嘘みたいな怠慢、嘘みたいに狭隘な視野が許されるのでしょうか。
何故この二つの町が 「聖書地理」上重要なのか。ローマからアッピア街道をたどって行くと、終点は
Brundisium です。そしてそこからアドリア海をほぼ最短距離で渡ると (イタリア半島からバルカン半島のどこかに行くには、これが最も容易、安全な航路です)、Dyrrachion
の港に着きます。そしてこの港町から、アッピア街道と並び称されるローマ帝国の二大街道のもう一つ、エグナティア街道が出発し、マケドニアのテサロニケを経てフィリポイまで通じていた。
この二つの街道は、何せ有名なローマ帝国の街道の中でも特に、極めつきで重要視された街道です。常によく整備され、馬車での通行が全街道を通じて容易で、実際、馬や馬車の通行は非常に多かった。つまりこの二つの街道をとばせば、ローマからマケドニアの主要都市まで容易に行くことができたのです。この二つの街道によって、ローマとマケドニアが実に密接につながっていたのです。
地図にこの二つの町をのせておけば、そのことが一目でわかるというものじゃないですか。
それを、たとえば、この二つの町の名前さえも知らない聖書学者どもが、ローマからマケドニアのフィリポイまで行くのは大変だったから、パウロのフィリポイ書がローマで書かれたはずがない、などという珍説を流行らせてしまったのです
(第4巻解説参照)。
地図は雄弁です。どんな地図をのせるかで、その地図をのせた人物の世界を見る視野が一目でわかってしまう。
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