毎日出版文化賞授賞式での
挨拶全文
2017年11月30日
毎日出版文化賞の「企画部門」なるものを受賞した結果 (受賞作、『新約聖書・訳と註』全7巻8冊、作品社)、受賞者は授賞式で挨拶しないといけない、ということだそうで、仕方がないから、下記の挨拶の文を用意しました。
それで、単なる儀礼的挨拶を当りさわりなく述べたって退屈なだけだし、この際だから、学術書を出版するという行為について、少し言いたいことを言わさせていただこうと、思いました。
私にしてはめずらしく(多分、長い一生のうちではじめて)、事前に書いておいた原稿をそのまま読み上げる、というスタイルで話しました。もちろん、棒読みではなく、緩急、強弱、抑揚、間の取り方、等々、一語一語気をつけて、その言葉を話しかける相手に応じて、あっちを向いたり、こっちを向いたりと、普段の講座などで原稿なしで話すのと同じ感じになるように、気をつけました(だいたい、ほぼ完全に暗記していた)。
事前に、挨拶時間は一人2分半~3分と言われていたので、その時間内に言いたいことを言うとすると、音声や間に無駄が生じないようにものを言わないといけないので、それなら、原稿をそのまま読み上げる方が数秒の無駄もないように話せるから、百%原稿のまま読み上げることにした次第です。
これ、けっこう難しいので、事前に、実際に声に出して読んで見たら、言いたいことを全部書いてあったせいで、10分もかかってしまった。
それで、丸一日かけて、少しずつ削り、書き直して、30回以上も読み直し、修正を入力してプリトアウトし、それをまた声に出して読んでみて……、と、何とか半分まで縮めたのですが、どうしてもそれ以上に削ることができません。
それであきらめて、当日、毎日新聞の担当者に、「頑張って縮めたのですが、どうしても5分かかってしまうけれども、それでいいでしょうか」、とお願いしたところ、担当者はなかなか寛容な方でして、そのぐらいなら、かまいませんよ、と言ってくれたので、用意した文章を一字一句変えずにそのまま読み上げることができました。
以下がその文章です。
実際にしゃべってみたら、何故だか知りませんが、なかなか評判がよく、皆さんしばしば笑い声をあげたり、けっこう楽しそうに聞いて下さいました。私としては、こんな、くそ真面目な挨拶を、どうして皆さんが面白がって聞いて下さったのか、狐につままれたみたいな感じですが、どうやら、私が言いたかったことは伝わったみたいです。
しかし、この事柄については、もう少し多角的に、かつ正直に鋭くものを言いたかったので、たまたまこれと時期が重なったのですが、雑誌『新潮』の本年2月号(1月6日発売)に短いエッセーをのせる約束になっていたので、そちらに、基本的には同趣旨ですが、もう少し別角度で言いたかった項目を、他にいくつか並べて書きました。つまり、いささか棘と皮肉のあるところを正直に強調しておきました。この挨拶文とあわせて、そちらもお読みいただければ、幸いです。
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授賞式挨拶
本日は、たいへん結構な賞をいただき、まことに有難うございます。
ただ、正直に申しますと、私としましては、学者稼業の人間として当り前の義務を果しただけのことでして、それだけのことに、こういう晴れがましい賞をいただくのは、いささか照れくさい感じでおります。
どんな学者でも、私もそうですが、学問の仕事に従事する上で、それなりに優遇された環境を与えられて生きてきたわけです。時間的にも、非常に多くの時間をかけて勉強し、研究し、探求するだけの余裕を与えられてまいりました。
そうしますと、その知識は、当然ながら、私個人の所有物ではありません。私にこれだけの時間と余裕を与えて下さった世の中にお返し申し上げるべきものであります。つまり、世の中でそのことに興味をお持ち下さる読者の方々に、原則としてすべて公開するのが学者の義務である。それも、どなたがお読み下さってもわかるような、鮮明な、わかり易い文章で公開しないといけない。
確かにこれは、非常に難しい作業です。けれども、難しいからとて、それが学者稼業の基本の義務なのですから、逃げるわけにはいきません。
その意味で、私の今回の仕事も、当然の義務を果したまでのことです。ですから、それだけのことで、何か輝かしい賞をいただいたりするのは、どうも、ちょっと気恥ずかしい、としか申しようがございません。
けれども、これは出版文化賞であります。毎日新聞社が、もう七十年も前にこの賞を創設なさって、今日までずっと続ける努力をしてこられたのは、我々が生きているこの社会において、出版文化というものがどれだけ重要な役割を果すものであるかを十分に認識なさっておられたからです。
とすると、もしも私がこれをいただくのをお断りするようなことをしたら、その御努力に対して大変失礼なことになります。それなら、むしろ、私もその御努力の一端に微力ながら参加させていただきましょう、という気持で、この賞をいただくことにしました。
加えてこれは、まさに出版文化賞であります。一つの著作といえども、著者が文章を書けばそれで本になる、などという生やさしいことではないので、著者とともに、出版社、印刷屋さん、販売店ほか多くの方々の力が加わって、はじめて一冊の本として読者の手にわたるわけです。つまり、出版文化賞というのは、その本の出版にたずさわったすべての方々の努力を評価したいというお気持の表現である、と私は理解しております。
私の著作で言えば、極めて地味な内容で、分量的には非常な大著であります。こういうものを出版することは、出版社側の労働作業としても大きな負担になりますし、下手をすれば、ちょっとした赤字にもなりかねない。それを承知の上で作品社の方々が敢えて決断し、出版する労をおとり下さった。
ですからもちろん、これは私一人が照れ臭いのどうのと言ってすませられるような水準のことではありませんから、むしろ私も毎日新聞社の方々と一緒になって、作品社のお仕事を高く評価し、感謝する気持を表現させていただこうと思って、遠くからここに出て参りました
あと一つだけ、この種の賞は、普通は、若い著者の方々に対して出されるものであります。彼らがこれからも良い作品を生み出してくれますように、という期待がこめられているわけです。現に、本日私と一緒に受賞した他の方々は平均年齢で言えば、私よりも三十歳も若い。だから彼らは今後もより良い作品を生み出し続けるでしょう。
しかし私はすでに82歳、今回の大作を仕上げる労働で、もうへとへとに疲れ切っております。あと何年生きるかもわからない。ですから、もう、毎日のんびり居眠りをして、静かに、楽に、残りの時間を過ごしたい。
と、せっかくそう思っておりましたところに、この賞の受賞が決まったよ、という通知が舞い込んだわけです。それはすなわち、「お前ももっと頑張って、次の作品はもっとしっかりした良いものを書きなさいよ」、とおっしゃっておられるに等しいわけですから、年寄にとってはいささか過酷な話であります。しかし、受け取ってしまった以上、しょうがないから、私も、少なくともこの後の数年間は、もう一つ大きな著作を仕上げるために、努力をし続けねばならないのかな、と思っております。
以上です。どうも、有難うございました。
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