『新約聖書・本文の訳』
2018年7月25日、作品社より発行
定価 上製版 4000円(税別)、携帯版 1800円(税別)
作業日程
本文の訳に多少手を入れる作業 (下記の (1) ~ (4))の開始は昨年(2017年) 秋
本文の訳 原稿完成、送付 本年(2018年) 4月11日
本文の訳 初校ゲラ、入手 本年4月28日
はじめに 原稿完成、送付 本年4月29日
解説ほか 原稿完成、送付 本年5月7日
全体の初校ゲラ、終了、送付 本年6月12日
全体の再校ゲラ、入手 本年6月22日
再校終了、送付 本年6月25日
これ以後の作業 (印刷、製本、出版、等々) はもちろん出版社におまかせ。
書物の見本 (出版社、著者用) 完成 本年7月25日
翌日(当日?)より、書店等に発送。
本書の内容について
これは、『新約聖書・訳と註』全7巻8冊のうち、各文書の本文の日本語訳のみを集めて一冊にして、発行したものです。
従って、すでに 『訳と註』 の各巻で長年かかって公表してきたものと同じもののはずですので、いわば 『訳と註』 の別巻です。
目的は、訳文だけ手頃な大きさの一巻本にまとまっていれば、利用なさる方にとって便利だろう、と思った次第です。
けれども、実際にやってみると、単にすでに発表した訳文をそのまま一冊にまとめた、という程度ではすまなくなりました。
以下、『訳と註』 の訳文との相違を列挙します。
(1) 訳文をややわかり易く改めた
『訳と註』 をお読みになる方なら、おわかりにならない点があれば、その個所の 「註」 をご覧になればすんだのですが、
「註」 なしで訳文だけをお読みになる場合には、この訳文はあまりに直訳・逐語訳ですから、わかり難い点が時々出て来ます。
それで、原文の意味が鮮明な場合に限り、訳文に多少語句を補ったり、ないし多少表現を変えたりして、
訳文だけ読んでも日本語として意味が通じるように配慮しました。
ただし、全体として見れば、このような変更を加えた個所は非常に僅かです。
他方、そもそも原文の意味自体が不鮮明で、明白な意味を定め難い個所も多く出て来ますが(何せ古代の文書である)、
その場合は、これが原文の実態なのだよ、ということをおわかりいただけるように、
訳文も意味不鮮明なままの直訳・逐語訳にしておきました。
私見では、それこそが正確な翻訳だと思います。
従来の聖書訳のように、原文の意味が不鮮明なのに、極めて鮮明な文であるかのように訳文を作ったら、
それは、もはや訳ではなく、「訳」者の勝手な創作になってしまいます。
従来の聖書訳では、そういう創作的な 「訳」文が非常に多かった。
(2) かなり多く註をつけた
もちろん、『訳と註』 の註みたいな詳細なものではありませんが、何せ相手は古代の文書、註なしで読むには無理があります。
それで、訳文をすらすら読むためにも少し註があった方がいいかな、と思われる個所には、註をつけました。
しかし今回はあくまでも訳文をすらすら読んでいただくためのものですから、脚註、傍註にはせず、文中に ( ) に入れて挿入しました。
特に、固有名詞 (人名、地名)が具体的に何を指すのかわからないと、文意もつかめませんから、
あまり有名でない固有名詞にはほぼ必ず註をつけました。
註のほとんどは、固有名詞を短く一言で説明するものです。それ以外の註は僅かです。
(3) 旧約の引用
はっきりと旧約の引用 (それも明らかに特定の個所の引用であるもの) には、出典を明記しました。
しかし、新約のその文書の書き手が旧約を引用する場合、ヘブライ語本文を自分でギリシャ語に訳して引用しているとは限りません。
非常に多くの場合、七十人訳のギリシャ語訳から引用しています。
そして、七十人訳本文とヘブライ語本文は、しばしばひどく異なっています。
従って、その都度、どちらからの引用であるかを明記しました。
従来の日本語訳旧約聖書は、建前上、ヘブライ語本文からの翻訳です。
ただし実際には、そのほとんどは、ヘブライ語本文から訳した英語訳の重訳にすぎませんが、それは別問題。
そうすると、これは旧約のどの個所の引用です、とか言われて、日本語訳のその個所を見てみても、
しばしば大幅に異なることがあります。これは、本当は、七十人訳とヘブライ語本文との違いに由来することが多いのです。
その他、いろいろあります。
他方、従来の日本語訳聖書の註で、非常に多く見られる現象は、ほんの1、2単語一致するだけで、
これは旧約のかくかくしかじかの個所の引用です、などと註をつけていることが極めて多い。
これは、ほとんど詐欺的な註です。実際には引用でも何でもないものを、引用です、と言い切るのだから。
我々はもちろん、正確に引用と言えるものに限って、註をつけています。
(4) 福音書の並行記事
福音書相互の間で、同じ話が記載されている例が非常に多く見られます。
これは、ほとんどの場合、ルカないしマタイがマルコの個所を適当に変えながら書き写している場合ですが、
他に、いわゆるQ資料 (マタイ・ルカ共通資料) からマタイとルカが書き写している場合もあります。
あるいは、けっこうしばしば、直接利用したわけではなく、同じ話の別伝承を記載している場合もある (ごく僅かですが)。
それらの個所には、原則としてすべて、その並行記事が他の福音書のどこにあるかを、註をつけて明示しました。
ヨハネがマルコを利用している個所は、数としては僅かですが、重要な個所でいくつかあるので、それも註記しました。
(5) 「はじめに」 と 「解説」をあわせて28頁記した
「はじめに」では、主として、そもそも 「新約聖書」 なるものはどういう代物なのか、その歴史的事実を短く記し、
あわせて、本書の翻訳の基本姿勢を解説した。
巻末の 「解説」では、「新約聖書」 に記載された 27個の文書 (相互に著しく、ないしまったく、異なる文書である)について、
そのそれぞれについてなるべく簡潔に (しかし必要最小限のことは落とさずに) 解説した。
著者は誰、ないしどういう人物か、いつ書かれたか、その文書の主たる内容ないし特色はどういうものか、について。
翻訳書である以上、原文の著者(たち) がどういう人物で、原著がどういう代物であるかを、
註なり巻末の解説なりで解説するのは、当然の義務であるはずである。
しかし従来の聖書訳の多くは、その解説をまったく載せていない!
これは、翻訳書の出版としては、由々しい欠陥である。
翻訳書を 「翻訳」 として出版しながら、その原著者、原文について、必要な歴史的知識を何ら明らかにせずに、
単に訳文のみを発行されたとて、読者は、その文章の歴史的位置づけがわからぬままに、訳文だけを読むことになる。
それじゃ、正確な読書はできない。
どうして従来の聖書訳はそういうことになったのか。
これは聖なる 「聖書」 であるから、人間的歴史的な位置づけなど必要ではない、かえって有害である、という
嘘みたいな迷信に支配されていたからである。
彼らは 「新約書」 (そこに収められた諸文書) を歴史上に生きた人間たちが、
つまり歴史的人間的に多くの制約をかかえた人間たちが書いたものである、というあまりに当り前な事実を
のっけから拒絶するところからはじめて、「新約聖書」 なる彼らの信仰の対象物を
「翻訳」 と称して発行しているだけなのだ。
我々は、新約の諸文書をそれぞれを、それぞれなりに人間的、歴史的に限定された存在として、
その歴史的実態を明らかにするための大量の努力の上に立って、
その上ではじめて、その原文の翻訳を試みたのである。
当り前だ! 人類の過去の、歴史上の産物である文献を翻訳するのに、他の方法がありうるわけがない!
その意味では、「はじめに」 と 「解説」 は、もちろん、私の著述だが (つまり本書は単なる翻訳だけではない)、
まずこれを、お読み下さることをからはじめてくださるよう、お願いします。
翻訳の基本方針、その他についても、「はじめに」 の中でかなり丁寧に記してあります。これも是非お読み下さい。
本書の出版形態について
トップ頁の案内にも記したように、本書はまったく同じものを、大きさを変えて二つの判型で発行しました。
それに関して、もう少し記しておきますと、
携帯版 (A6判 = ほぼ文庫判)
新約聖書となると、やはり世界の古典だから、日本語訳を一冊は持っていたい、と思われる方が多いでしょう。
その方々の中には、特に若い方々は、そうそう本代に多くの費用をかけてはいられない、という方も多いと思います。
あるいは、保存用として上製本(A5判) をお買い下さった方も、持ち歩き用としてもう一冊ほしい、という方もいらっしゃいましょう。
その方々のために、できる限り小さい、できる限り軽い、できる限り安い、という三つの原則を満たすものとして、こちらの版を作りました。
と言っても、これは簡単な仕事ではありませんでした。
新約聖書というと、日本聖書協会が発行なさっている安価な小型版に慣れておいでの方が多いでしょう。
そのせいで、聖書というのは、手軽で、安く買えるものだ、と思っておいでの方が多いはずです。
しかし実は、新約聖書というのは 27個の異なった文書を集めた文書集であって、ずい分と分量の多い代物なのです。
日本語で発行されている普通の文庫本の中で、1頁あたりの文字数が非常に多いものでも、せいぜい 630字 ぐらいです。
近頃の文庫本は、大部分、文字を大きくしていますから、それよりももっと文字数は少ないです。
これは主として、御高齢で老眼がかなり進んでおられる方々のための配慮であって、それ自体としてはまことに結構なことです。
けれども、新約聖書全体の分量は生やさしい量のものではないので、
たとえば私の訳の場合、1頁630字で組んだら、狭義の訳文だけで 820頁にもなってしまいます。
ましてや、私の 『本文の訳』 の場合、「はじめに」「解説」だけで相当量がありますし (これは、翻訳本としては不可欠の要素です)、
加えて、文中に ( ) 内に入れた多くの註、そして黙示録については、本来の原文と思われる部分だけをもう一度別に刷っていますから、
単に本文の訳だけのものよりも、かなり頁数が増えます。
つまり、1頁630字の割付にすると、ほとんど 900頁になってしまいます。
1冊 900頁を越える文庫本なぞ、ひどく扱いにくくて、持ち歩きにもけっこう不便である。
それに、この厚さでペーパーバックだと、頁を十分に開けないから、頁の最も奥の行はひどく読みにくい。 等々。
加えて、何よりも、これでは、定価がぐんと高くなってしまう!
それで我々は (作品社と私)、1頁に入れる文字数を出来る限り増やす方針でのぞみました。
それなら、頁数をぐんと減らせる。
それで我々は、何としても 500頁以下に仕上げよう、という目標を設定しました。
そうすれば、小型版なら、何とか、税込みで 2000円以下にすることができる!
しかしこれは、矛盾する二つの絶対命令を、両方とも実現しようということですから、非常に困難な目標でした。
1頁あたりの文字数を増やためには、必然的に、文字を小さくし、かつ行間を詰めないといけない。
しかし、文字を小さくし、行間を詰めたら、必然的に、ひどく読みにくくなる!
我々の結論は、2段組で 25字×23行、というものでした。 これより頁あたりの文字数を削ったら、定価が 2000円をだいぶ超えてしまう。
しかしこれでも、文字が小さくなりすぎて、読みにくかった。
それで、上下の余白を更に削り、段間の余白も削って、文字の大きさを、電算写植の文字の大きさにして更に 0.5級大きくしました。
その結果、頁の両端の余白もややつめたので、かなり窮屈になりました。
けれども、これが我々にできるぎりぎりの限度でした。
文字をこれ以上大きくしたら、必然的に、頁数がぐんと増えて、定価もぐんと跳ね上がる。
文字をこれ以上小さくしたら、大多数の読者が、これでは小さすぎて、とても買う気は起こらない、とおっしゃるだろう。
しかしそもそも、正反対の二つの目標を同時に成立させようというのだから、
どちらの方向についても、ぎりぎりの無理を我慢するより仕方がない。
というわけで、何とかこの形に決まりました。
この結論に到達するまで、いくつもの割付案を作り、頁の試作を作って、作品社と私の間で協議を重ね、
これがお互いぎりぎり妥協できる地点かな、とたどりついた結論です。
誤解なさる方がいらっしゃるといけないから、書いておきますと (「はじめに」 の中でもはっきり書いておきましたが)、
日本聖書教会版は、これまでも、今でも (多分今年の末に発行される新しい版でも)、 ごく当り前のように、
もっと安い定価で、もっと読み安い割付で、新約聖書を (及び旧新約も) 発行しているではないか、
とおっしゃるかもしれません。
しかしあれは、多額の寄付金によって支えられ、
販路も、キリスト教の数々の宗派の教会とキリスト教主義学校での大量の売り上げによって支えられているのですから、
話はまるで違います。
我々の場合は、いかなる集団、宗派と結びつくこともせず、あくまでも一冊の本として、他の何ものでもなく一冊の本として、
通常の書店での販路を通してのみ発売されるものです。
いかなる勢力、集団とも結びついていない一つの中立的な出版社によって、通常の販売経路のみを通して、
つまり普通の書店のみを通して販売されるものです。
それでなければ、書物の中立性、客観性、学問的自立は保証されない。
そして、我々を支えてくださるのは、どこにいらっしゃるどなたかもわからないけれども、この本を買って下さる大勢の読者だけなのです。
しかしもちろん、それこそが、書物の質を支える本当の力でありましょう。
というわけで、単に定価が安ければいい、というものではない。むしろ、十分な質を支えるためには、下手な安売りに走ることはしない!
けれども、そう言って居直って、これは出来る限り学問的に正当な質を保つ努力をしたのだから、定価が少しぐらい高くても仕方がない、
という言い訳に居座ることはいたしません。
同じものを、出来る限り安い定価で、かつ出来る限り読み易い形で、提供する努力をするのも、
出版者 (著者と出版社) の基本的義務であろうかと思っております。
上製版 (保存版 = A5版、ハードカヴァー製本)
しかし、小型携帯版は持ち運びに便利ですが、その分だけ、傷みやすいし、あまり保存には適さない。
そしてまた、上述のように、小さい文字は苦手、という多くの読者の声にも配慮しないといいけません。
それに、家では、ないし図書館では、大きな活字のものを、ゆっくり座って読みたい、というお気持もおありでしょうし、
家の書棚の然るべき位置に置いて、保存したい、というお考えもおありでしょう。
ですから、まったく同じものを2倍に引き伸ばして、表紙と製本はしっかり作った保存版も、同時に発行することにしました。
こちらは、縦横ともに携帯版の2倍の大きさのものです。 つまり、携帯版の判型を単純に縦横2倍に拡大して作ったものです。
いや、制作過程からすると、まず上製版の判型を作成し、校正もこちらでやって完成させ、
それから、同じものを縦横ともに二分の一に縮小して、小型版を作った、という次第です。
これなら、小型版の制作費は、そもそも組版代はほとんどかかりませんから、ぐんと安くすることができます。
という次第で、同じものを大小二つの判型で、何とか発行するところまで漕ぎつけました。
しかし、以上のような意味では、まだまだ試作品です。御意見のある方はいろいろおっしゃっていただければ幸いです。
もっとも、すでにかなりな部数を発行いたしましたので、簡単に判型を変更することはできませんが、
将来の参考にさせていただきます。
以上
⇒全体のトップページ頁にもどる