田川建三訳、著
G・F・ヘンデル メサイア
『歌詞対訳』、及び 『対訳への解説と註』
2019年6月9日
I. メサイア歌詞対訳
(1) 歌詞対訳 とは何か
英語歌詞と、日本語訳を左右に並べたもの。
そんなの、当り前ではないか、おっしゃるなかれ。 私の知る限り、今までのところ、ヘンデルのこの作品の、本当に 「対訳」 と呼べるようなものは、日本語では存在していない (これはまた、ヘンデルのメサイアに限らず、他の多くのキリスト教音楽についても、残念ながら、あてはまる現象であるが)。 「対訳」 と称しながら、まったく対訳ではない偽物はいろいろ出まわっているけれども。
何故か。この歌詞が100%旧新約聖書の英語訳 (主として欽定訳) からの引用句を並べたものであるのをいいことにして、これまで CD の付録やら、演奏会場で配布されたりしてきた 「対訳」 と称する代物は、本当はそもそも、ヘンデルの歌詞の英語のテクストそのものを訳したわけではなく、既存の日本語訳聖書の対応する個所を、そのままコピーしてきたものにすぎないのである。まさかね、現代日本語の聖書翻訳の文章と、16~17世紀の英語訳聖書の当該個所の文章とが、ぴったり一致するわけがないではないか!
両者は、さまざまな歴史的、またドグマ的な事情のせいで、大幅に異なっているのである。当り前だ。そもそも翻訳書というものは、それぞれそれを訳す奴が違う以上、相互に大幅に異なって当然である。加えて、これだけ長い時代の差があれば、旧新約聖書の研究は大幅に進歩している。17世紀初頭になされた欽定訳聖書の訳文と、20世紀後半になされた現代語訳聖書の訳文が、完全に一致することなぞ、あるわけがない! 完全に一致どころか、数え切れないほどの大量の個所で、大幅に異なっている! その進歩の過程をまったく無視して、欽定訳からの引用文と、現代日本語訳からの引用文を左右に並べたとて、それで対訳になるわけがないではないか!
そして、メサイアのテクストは主として欽定訳の英語文からの引用であるとはいえ、かなり多くの個所で、歌詞作成者 (Ch. ジェネンズ) が、あるいはヘンデル自身が、それぞれその個所の状態に応じて、いろいろと変更を加えている。 「メサイアの対訳」
と称するのなら、当然ながら、彼らが聖書英語訳本文に加えた独得の変更点をもきちんと訳し入れなければいけない。当り前だ!
加えて、日本聖書協会訳に代表される既存の現代日本語の聖書訳は、あまりに多く、幼稚な思い込み、勝手な読み込み、等々に満ちている。
他方、16, 17世紀の英語訳もまた、そっちはそっちで、独得の思惑、思い込み等々で混乱した訳文を大量に書き連ねている。
そういった代物が、相互にぴったり一致するわけがないだろうに!
それに対し、今回の私の対訳は、本当に対訳である。左欄にメサイアの英語のテクスト、右欄には、その英語のテクストそのものを直訳した私の訳文を並べたものである。
メサイアの英語のテクストの日本語訳をご覧になりたければ、こういう仕方で本当にメサイアのテクストの英語文を訳したものをご覧にならないといけない。
(2) 「対訳」 は左右対称にせよ
もう一つ、一見小さいが、けっこう重要なことは、「対訳」と称するのなら、本当に左右対称になっていないといけない。これは、実際にやってみると、ひどく面倒な作業である。しかし、だからとて、この作業をやらずに、左右非対称のまま、英語の文と日本語の文を並べたとて、「対訳」にはならない。
「対訳」 の読者は、単に 「読者」 ではない。音楽の 「聴き手」 なのだ。この場合で言えば、メサイアの曲を聴きながら、同時に対訳のテクストを見ているのである。曲の進行にあわせて、今歌われている英語の文はどういう日本語に対応するかを確かめるために、横目でちらちらと対訳の二つの欄を追っているのである。つまり、その英語の表現が英語のままではすぐにぴんとこなかった時に、その隣の日本語訳にちらっと目を走らせる。瞬時に。
しかしもしも、それが、この行の英語の表現が日本語訳では数行後に置かれる、というような仕方で記されていたら、聴衆は、一目でその日本語訳の句を見つけることができない。確かに西洋語
(特に英語) と日本語では、語順が著しく異なる。日本語では語順を、「語」順どころかかなり長い句や文を、まるごと順番をひっくり返して訳さないとならない場合が多い。しかし、「対訳」でそれをやると、上述のように、その英語の語句に対応する日本語の訳文が数行も離れたところに置かれる、という現象がしばしば生じてしまう。これでは、「対訳」
としてはあまり役に立たない。
私の対訳は、その点も気を配って、原則として (極めて僅かのごく小さい例外を除いて)、右側の日本語訳文が左側の英語本文と位置がほぼ内容上ぴったり一致するように、訳文を工夫した。これは、口で宣言するのは簡単だが、上述のように、英語と日本語の構文の違い
(また語の意味の幅の違い、その他いろいろ)からして、しばしば語順をひっくり返して訳す必要が生じる以上、実際にやってみると、非常に難しい作業である。しかし聴衆は、英語の文を片眼で見ながら、もう片方の眼で隣の欄の日本語の文を追う、という仕方で、曲を聴いているのである。左右のこの対応がきっちりできていないと、聴衆は、聴きながらその
「対訳」 を見ようとそても役に立たないから、曲がはじまってしばらくたつと、その「対訳」から目を離して、歌詞を追うのをやめ、曲にだけ耳を傾けることになる。
それじゃ、「対訳」として役に立たない。
それに対して、今回のコレギウム・ムジクム合唱団の演奏会に際しては、多数の聴衆が (少なくとも過半の聴衆が)、最初から最後まで、曲を聴きながら同時に対訳を見続けていた。つまり、今、壇上で歌われている曲の歌詞がどういう意味なのかを、最後までずっと頭に入れながら、曲を聞き続けていたのだ。だから、曲が頁の変り目に来ると、聴衆がそろって一斉に頁をめくる。それが最後まで続いた。合唱団員の中で、私に親しい人たちが何人か、こんな風に最後まで聴衆がそろって対訳の頁をめくり続けていた演奏会はめったにない、と私に話してくれた。
この現象は、ある意味では、演奏者たちにとっては嬉しくなかっただろう。頁の変り目ごとに、聴衆が一斉に頁をめくるから、どんなに注意してめくっても、どうしても、僅かではあっても小さな音が会場に満ちる。それが、演奏される曲の音を妨げる。演奏者としては、聴衆が頁をめくるのに神経を使うよりも、今演奏されている音楽そのものに百%注意を注いでほしい、と思うだろう。 その意味では、これは、演奏の妨げになる現象であった。
しかし他方、歌詞が日本語以外の言語である場合、ふだん日本語で生きている聴衆が、その歌詞を百%きっちりと理解しながら聴いてくれる、というような現象は、奇跡に近い。いや、奇跡が起こっても、そんな現象は生じないだろう。英語の歌詞でも、いかに英語が日本ではかなり普及しているとはいえ、それは無理である。おまけに、メサイアの場合、歌詞の英語は17世紀の英語である。そして内容はしばしば七面倒くさい聖書の翻訳文である。それをいきなり、それもゆっくりとしゃべってくれるというのなら、まだしも、音楽の曲にのせて歌われたのでは、それを耳で聴くだけで100%理解できる聴衆など、日本語の世界では、百人に一人もいるかいないかであろう。
だからこそ、対訳が必要なのである。そして、だからこそ、その対訳は、きっちり、ほぼ100%、左右対称でなければいけないのだ。
私は敢えて、この厄介な作業に挑戦した。そして、まだまだ改善すべき点は、細かくは多くあるだろうけれども、とりあえずは、上述の現象に見られるように、ほぼ聴衆の皆さんに満足していただける結果となったことを、非常に嬉しく思っております。
実際、合唱団の人たちも、壇上で歌いながら聴衆の姿を見ていて、こういうめずらしい現象が生じたことを、とても喜んでくれていた。聴衆が最初から最後まで歌詞のテクストを見ながら、同時に音楽の流れの中に入っていっている姿を見て、かさこそと頁をめくる雑音にもかかわらず、よかった、よかった、と言ってくださったのである。
演奏会で、歌詞の意味を頭に入れながら同時に音楽としての曲にしっかり耳を傾ける、これが、歌詞のある音楽を主体とする曲の演奏会の場合、やはり、一番望ましい形ではなかろうか。
そしてそれなら、演奏会でなく、たとえば CDを買ってきて、一人でくつろいで座って、しっかりした対訳を見ながら聞くとしたら、曲に対する興味は倍増するだろう。
その意味でも、今回の演奏会にお出でにならなかった多くの読者の方々も、ぜひ、この 『対訳』 と 『対訳への解説と註』をお求めくださるよう、期待いたしております。
II.小書物 : 『メサイアの歌詞に対する解説と註』
概要
仕様 A5判 198頁
頒布価格 910円 制作費 730円 =外注した印刷費と製本代、及び、郵送料 180円 = 郵便局のスマートレター代金。
なお、直接お目にかかってお渡しする方には、制作費 730円のみいただきます。
同送の 『メサイア対訳』 は、代金はいただきません(B5判 8頁)。
他に、この小書物の誤記誤植訂正表 (B5判 4頁) も添付。
この小書物の内容
一応、内容紹介を書いておきますが、内容についてはともかく実物を読んでいただきたいので、ここではあまり詳しい内容紹介は書きません。
I. 序説 (全38頁)
1. はじめに、言語と音楽
2. この対訳と註を書きたいと思った理由
正文批判の問題、 翻訳によるずれ、 欽定訳とメサイアの歌詞の相違
3. コレギウム・ムジクムに感謝
4. メサイア (Messiah) という語
5. ヘンデルの年譜
6. ヘンデルとジェネンズ。 メサイアのテクストは誰が書いたか。
7. 英語訳聖書の歴史
8. 凡例
9. あとがき
以上のうち、たとえば 「ヘンデルの年譜」、「英語訳聖書の歴史」 は、簡単な一覧表ですが、お手元にあれば便利だろうと思って、入れておきました。
ほか、書物として必要な前書き等は別として、議論として是非お読みいただきたいのは、1. 言語と音楽、 2. この対訳を書きたいと思った理由、及び 6. ヘンデルとジェネンズ、です。また、この時代の英語訳聖書の歴史(上記7番) を御存じない方、ないし忘れた方は、「メサイア」のテクストを正確に理解するための重要な時代背景ですから、この際、頭に入れて下さいますように。
1. はじめに。言語の意味と音楽の音
この曲は、言語の意味と音楽の音の関係という難しい問題について考えてみるための絶好のモデルですので、この際、是非そういう視点をもって、この曲を聴いてごらんになると面白いかと存じます。本書は、そのための手掛りになる素材を個々の曲、個々の個所について、非常に多く提供しております。
そもそも、言語は 「意味」 を表現するものである。基本的には、意味を伝えることができれば、それで役割を終る。それに対し、音楽の音は、言語的な
「意味」 を伝えることを主たる目的としてはいない。音楽の音の世界は、音楽以外の何ものでもない。それ以外のことを伝えるためのものではない。音楽は聴く者に対して音楽を伝えることができれば、それで十分なのである。だから、音楽によって言語的な
「意味」 を伝えようとするのは、本質的には、無理であるし、逆に、言語によって音楽の音の何たるかを説明しようとするのも、本質的には、無理なのである。
その無理を敢えてやろうとしているのが、歌曲である。その中でも、オラトリオは、その無理が最も鮮明に露出する。
何故か。音楽の音を最も純粋に表現しているのは、器楽曲である。楽器がかなでる音は、言語の音とはまったく別の世界であって、それだけで独立の世界なのだ。そして、その極致がオーケストラである。
他方、オラトリオの歌詞は、 「メサイア」 の場合も明らかにそうであるが、元々の目的としては、キリスト教の教え、キリスト教信仰なるものを表現しようとしいる。つまりこれは、顕著に言語的な意味の世界である。
この二つを敢えて組み合わせようとしたのだから、どんなにすぐれた作曲家の作品であろうと、歌詞の文章が言語として表現しようとしているものを、楽器の音楽としてうまく表現できるわけがない。
その両者をつなぐものが、ソロであれ合唱であれ、人間が音声で歌う歌である。しかしオラトリオの場合、歌手が歌う歌の言語的な意味を引き立たせるために楽器が音楽をならしているわけではない。
「メサイア」 の場合(に限らないが、オーケストラがかなでる曲は、れっきとした音楽として独立しているのである。ここでは、音楽の曲は、歌手が歌う歌の言語的な意味を引き立たせるための付属品、つまり
「伴奏」 であるわけではなく、こちらはこちらで、音楽作品として、独立しているのである。だから「メサイア」の場合、オーケストラのかなでる音楽が主体で、歌手たちが歌っている歌詞のせりふは、主役であるオーケストラの音楽につけられた飾りのような位置にしかいない、という現象がしばしば起こる。
ヘンデルの 「メサイア」 という作品をお好きで、くり返しくり返し聴いておいでの方は、御自分のお好きな曲を思い出していただくといい。
あなたがお好きなのは、その曲 (音楽としての曲) なのか、それともその台詞がお好きなのか。果して、その台詞は、その曲とうまい具合に合致しているだろうか。いや、合致は無理だとしても、せめて、うまく調和しているだろうか。
そして、うまく調和している場合でも、その曲の最初から最後までうまく調和していると言えるだろうか。うまく調和しているのは、実は、最初の二つ三つの語句だけだった、とか。
たとえば、私が大好きな曲の一つだが、クリスマスの場面の Rejoice greatly という曲 (「対訳」の18番)。あの曲の音楽は、みごとに、rejoice
greatly という英語の表現に対応している。しかし、曲の台詞を先まで追っていくと、果してその台詞が、それにつけられた音楽の節(ふし) とうまく対応しているだろうか。実はあの曲は、最初から最後まで、rejoice
greatly (大いに喜べ) という冒頭の表現に対応して作られている。 この18番の曲全体が 「大いに喜ぼう」 というヘンデルの呼びかけに対応しているのである。だから我々聴く者も、それに対応して、この曲全体を通して、同じ喜ばしい思いを共有するのである。
しかし実は、それは、この曲が、この曲の音楽が、最初から最後まで rejoice greatly という冒頭の呼びかけに応じて作曲されているからであって、歌詞のこれより後に続く部分はほぼまったく曲の質と対応していないのである。だからまた聴衆にとっても、その後に続く歌詞は実はほとんどどうでもいいものになっているのである。
しかし、それでいいではないか。曲そのものが喜ばしい、ないしむしろ楽しい曲なのだ。それもヘンデル的に実に楽しい音楽なのだから。
等々。考えだしたら、他にも無限に多くいろいろ出て来ます。 というわけで、あとは、この小書物の各曲の解説 をお読み下さい。
以上とは別の問題だが、ついでに横道を一言。 すでに指摘したように、メサイアの歌詞は100%旧新約聖書の引用である。従って、その文を細部にわたって丁寧に、細かく、かつ緻密な分析する作業は、聖書文献学者でないと不可能である。他の人では絶対に不可能、とまでは言わないが、その場合は、本気になってやろうとすれば、天文学的な数字の時間がかかってしまうだろう
(古代ギリシャ語、ヘブライ語をかなりな水準になるまでしっかり習得するだけでも数十年、その他多数)。つまり、この仕事は、普段から私のような領域で仕事をしている人間がやらねばならない義務である
(しかし残念ながら、この国の聖書学者たちがその義務を果しているとは、私にはとても思えないけれども)。
もう一つ横道。その引用文の7割弱は旧約からの引用である (残りは新約)。 従ってこの作業をやろうと思えば、嫌でも、そもそも旧約の原文の一つ一つがどういう意味で言われているのかを、正確に把握しないといけない (もちろん、西暦紀元前数百年などという古い時代の文献である。今からでは、そもそも何が言いたいのか、正確なところはわからない、という個所も多い。そのことも含めて、一つ一つ正確に把握する努力をしないといけない)。
そして、メサイアの引用文は、主として欽定訳そのままである。 そして欽定訳等当時の英語訳は (特に国教会側がやらかした翻訳は)、非常にしばしば
(ほとんどとすべて、言ってよいくらいに)、原文の意味とはまるで乖離したひどい翻訳をつけている。 このことは、メサイアの歌詞がどうのこうのとおっしゃりたがる評論家諸氏は、もっと肝に銘じて認識しておいていただかないといけないのだが、とりあえず言わねばならないことは、私は今回この作業を通じて今まで以上にますます、日本語の世界では、旧約聖書というものは、正確な水準ではまだまだ、ほとんどまったく知られていない、何故なら、原文の文章の意味がほとんどまったく伝わっていないからだ、という事実を痛感したのである。
それは、まだまだあまりに悲惨な水準なのだ、と。
しかし、まあ、しょうがない。相手は西暦紀元前数百年の文献である。 他処の世界のそんな古い文献、この国ではほとんど知られていなくても、それで当然なのかもしれない。
しかしそれなら、せめて、それで当然、という認識ぐらいは、皆さん持っていただきたい、と思う。
2. この対訳をどうしても自分でやらねばならぬ、と思った理由
私の識見もひどく限られているから、もしかすると単に私が知らないだけかもしれないが (そうであることを祈る。もしも御存じの方がいらっしゃったら、教えていただければ幸いです。しかし、教えてやろうとお思いになる前に、まず、私のこの小書物をお読みになって下さい)、これまでのところ、日本語の世界では、ヘンデルのメサイアのテクストの対訳は (ないし対訳でなくとも、単なる翻訳だけとしても) 存在していない。これは、驚くべき事実である。ヘンデルのメサイアは日本でも広く知られており、しばしば演奏されている。それにもかかわrず、その歌詞の対訳どころか単なる翻訳さえも日本語では存在していないなんて!
確かに 「メサイア」 の歌詞の 「対訳」 です、とと名前をつけられたものは、いろいろと出まわっているが (演奏会で配られたり、CD の付録という形だったり、等々)、いずれも、ヘンデルの英語のテクストを訳したものではない。英語の原文を訳さないでおいて、それが何で
「ヘンデルのメサイアの歌詞の対訳です」、などと言えるのか。 いやそもそも、これでは「訳」 と言えるような代物ではない。
「対訳」 と称して、彼らは (ひどい奴になると、「訳者 誰野彼兵衛」 などと堂々と自分の名前を表示していらっしゃる。自分は何の翻訳もしていないくせに、それで
「訳者」 と称するのだから、たいした勇気である)、他人がおやりになった聖書のその個所の日本語訳 を、そのまま右から左へと書き写しているだけなのだ。
何とまあ、あきれたことに、彼らは、そのあたりに出まわっている日本語訳聖書 (口語訳、新共同訳、ないし他の訳であろうと) の訳文と、ヘンデルのメサイアの英語テクストでは、まるで違う代物 だ、という、ごく初歩的な事実さえ、御存じないのだ! だいたい、聖書の日本語諸訳 (現代になってなされたもの) は、基本に置いている原典 (ヘブライ語ないしギリシャ語)
のテクストが、メサイアの歌詞の主たる作成者である Ch. ジェネンズ が無責任に右から左に書き写してきた欽定訳 (1611年訳!)のテクストと、ずい分と違うものである、という事実さえ、御存じない! 元に置いている原文のテクストそのものがずい分違うんだから、訳文もあちこち大きく違っていても、当然ではないか。(まさかねえ、こんな初歩的な事実さえ知らない奴が、聖書引用集であるメサイアの歌詞の対訳に手を出そうとは! これって、すでに、ほとんど詐欺行為だよ)。
それに、ジェネンズは、欽定訳を引用する場合も、けっこうしばしば、ちょこちょこと、細かく表現を書き変えている。つまり、「ヘンデルのメサイアの英語の歌詞」 を翻訳します、とおっしゃるのであれば、ジェネンズさんのこれらの書き変えも含めたジェネンズ版の英語文を翻訳しないといけないのに、ジェネンズさんのその英語のテクストをちゃんと読まないで、口語訳だの新共同訳だのの訳文を右から左にそのまま書き写してきたって、それでは、ジェネンズさんのせっかくの細部の書き変え
(「せっかくの」と言うべきか、「下手くそな」と言うべきかは別として)が、まったく反映されないことになってしまうではないか! しかし、気に入ろうといるまいと、それがジェネンズさんのテクストであり、オラトリオ
「メサイア」 として歌われている歌の歌詞なのだ! それらの細かい (しかし大量にある) ジェネンズによる変更点を一切無視しておいて、これが 「メサイア」
の歌詞の 「対訳」です、と宣言なさって世間に公表なさるのだから、それじゃ、盗作以下の水準、あるいはむしろ、 対訳 でないものを 「対訳」 と称して売りに出した詐欺、としか言いようがないではないか。
提案 『メサイア』 (に限らないが) の歌詞は英語で書かれている。 だったら、この歌詞の対訳をやって公表したい人は、自分で、自分の力で、その英語の文を理解し、自分でその英語文を日本語に訳しなさいな。それは、ある意味では、簡単な仕事である (やらねばならない作業が非常にはっきりしている、という意味で)。 いや、このことはあまりに当り前すぎて、こんなところで声を大にして言わねばならないなんて、恥ずかしすぎて涙が出て来る。
その他、いろいろ多くの問題。 詳しくは、私のこの小書物の序説を、また本論のテクストそのものの解説を (特に第1部の解説を) お読みいただきたし。
6. ヘンデルとジェネンズ
しかし、通俗的な紹介では、メサイアの歌詞は Ch. ジェネンズ (一時期、ヘンデルのパトロン的な立場で、ヘンデルを助けようとした、ないしいろいろ手出しをした人物) が作成して、ヘンデルがそれに曲をつけた、と言われている。 確かに、一言で言ってしまえば、そういうことになるだろうが、事はそんなに単純ではない。 本当にヘンデル自身はその歌詞に自分では一切手を加えず、歌詞の個々の聖書引用文の選択についても、一切自分の意見を入れていないのだろうか? まさかね。
だいたい、ごく常識的に考えても、ヘンデルほどの水準のすぐれた作曲家に対して、ジェネンズさんが、次は 「メサイア」 をやりましょう、と決めて、ヘンデルさんと無関係に自分一人で歌詞を勝手に作り上げ、それをぽんとヘンデルさんに手渡して、「はい、これに曲をつけなさい」、と申し渡した、それでヘンデルさんがおとなしく、「はい、かしこまりました」
と、言われたとおりに音楽部門だけを請け負って、作曲に専念しました、などということが、あるわけがないではないか。それじゃ、ヘンデルはジェネンズ親方に雇われた丁稚奉公の子分、ということになってしまう。
ヘンデルほどの音楽家、つまり芸術家であり、創作者である人間は、言語の言葉と、音楽の曲とをくっつけて一体化するという難しい作業をするのに、しかもそれを
「ヘンデル作」 として公開し、演奏するのに、歌詞については一切無関心で、あなたまかせですませました、などというわけにはいくまいに。
常識的に考えても、まさか、そんなわけにはいかないだろうということは、すぐにわかるだろうけれども、そのことを証拠づける資料は、やや間接的な資料ではあるけれども、いろいろ多く存在しているのである。
これまた、私の小書物をお読みいただきたし。
メサイアの歌詞について考える上での基本課題は、歌詞のどの部分にヘンデル自身の意見が反映しているかを、見分ける作業である。
これについて私は、「序説」 のこの個所で、我々が基本的に取り組むべき課題を列挙し、その上で、本論の中の一つ一つの曲の解説で、そのことを常に意識的に問題として取り上げた。
以上のほか、7. (この時代の)英語訳聖書の歴史 も、もしも御存じなければ、この際、しっかりとお読みいただきたし。最小限この小書物に書いたことぐらいはしっかり頭に置いておいででない連中がが、上記のように、平気で知ったような顔をして、現代の日本語訳聖書の引用文をヘンデルのメサイアの歌詞の対訳です、などと並べるような幼稚な詐欺的行為をやらかすのである。
.
II. 歌詞本文についての解説と訳註 (全159頁)
この章がこの書物の中心部分である。以上の基本方針の上に立って、個々の歌詞について、なるべく細かく、丁寧に註をつけました。
基本的には、そもそもその文の原文 (旧新約の諸文書のヘブライ語、ギリシャ語の本文) の正確な意味はどういうものであるか、欽定訳等の 16,17世紀の英語訳が、原文の意味とどれほどひどく乖離しているか、 要するに、これをキリスト教会の公の正典とみなして、つまりキリスト教の公のドグマを正しく表現しているはずの絶対的に権威ある書物とみなしして、「訳」
そうとするのなら、原文の意味を大幅にねじまげる以外に、手はないのである。 現に、彼らのやらかした聖書の翻訳は、そういう代物にしかならなかった。 そして、このことは、特に、旧約聖書の翻訳においてひどく目立つ
(新約の翻訳についても、大同小異だが)。まさかね、西暦紀元前数百年に書かれたユダヤ教の文章が、後2世紀以降に徐々に成立していったキリスト教正統主義のドグマを書いているわけがないではないか。
旧約の諸文書は、当時のユダヤ教の文書である。 それもしばしば、非常にごりごりの他民族排他的なユダヤ教文書である。 もちろん、中には、そのユダヤ教社会の中で支配的なユダヤ人絶対主義に対して批判的な姿勢を保っていた少数者も存在しなかったわけではないけれども。
つまり、旧約の諸文書は、そもそも古代ユダヤ教文書であるのだから、相当極端に改竄しない限り、それをキリスト教会の絶対的な教科書に作り変えることなぞ、無理なのである。 その改竄を大幅にしでかしたのが、16,17世紀の英語訳聖書なのだ。特に、国教会当局が主催してやらかした聖書訳はその点でひどい (グレートバイブル、欽定訳、など)。仏語訳や独語訳もある程度はその欠点を免れてはいないが、英語訳ほどひどくはない。
これと比べれば、 19世紀後半以降の旧約聖書の翻訳は (新約聖書の場合はもちろん)、まだまだ不十分であるとはいえ、そういう欠点を乗り越えようと、大幅に努力してきている。 従って当然、欽定訳等の訳文と (それをほぼそのまま引用したメサイアのテクストも)、 現代になされた旧約の諸訳の訳文とが、同じであるわけがないだろう。
もう一つ我々の課題は、ジェネンズの作ったテクストが、どうして、細かくは、欽定訳等々と異なっているのか。
そしてもう一つ、日本語で出まわっている聖書訳のその個所の翻訳が、どれほど原文の意味とも、諸英語訳とも、隔たっているか (残念ながら、日本語訳聖書の水準が西洋語諸訳よりももっと、かなり低いせいであるが) についても、付録的に時々ふれておいた。
しかし我々の主たる課題は、上記の二つの大きな問題に取り組むこと、すなわち、一つは、ヘンデルのメサイアのテクストは、100%ジェネンズが書いたものではなく、時たまではあるが、ヘンデル自身の意見がそこに含まれていると、ということ。とすれば、それはどの個所に見出されるか、そして(それは、どういう分析方法によって見分けることができるか。我々はそのことを、一字一句にわたり、丁寧に検討した。
第2に、それと関連して、歌詞のテクストと、ヘンデルがそれにつけた曲が、果してどの程度、うまく対応しているのか、いないのか。対応していないとすれば、どういう理由か。
これは、非常に面白い、かつこの曲を聴く上で非常に重要な問題です。結論だけ言うと、ヘンデルが心をこめて、歌詞が表現している事柄を、何とか音楽としても表現しようとしている場合 (一つだけ例、他にもいくつかありますが、第2部23番、He was despised ...., 等々) と、それとは正反対に、ほとんど対応していない場合。
そして、後者の場合には更に二種類あり、うち一つは、そもそもまったく対応せず、ヘンデル自身も対応させようという気もなしに、適当にお茶を濁している場合。
もう一つは、歌詞のうちの一部の表現にだけ対応している場合 (この場合が非常に多い)。 この場合はヘンデルは、歌詞のうちの一部の単語 (ないし語句)にだけ着目して、それにうまく合った曲を作曲している。そうすると、いかにもヘンデルらしい曲になって、まことに楽しく、従ってその曲のファンも大勢いるのであるが、
しかしこの場合も、曲の過半の部分は、その個所の聖書の引用文の趣旨にはまるで対応していない (一つだけ例、第2部26番、All we like sheep, 等々。私は、この曲が歌詞とは真逆に、実に楽しい曲になっているところが大好きですけれども)。
そしてそれらの場合の中間的な場合がいろいろ多数。
こういう問題を一つ一つ気にしながら、是非この小書物をお読みいただいて、メサイアの曲そのものをお聴きいただければ、幸いです。
ほかにもいろいろ面白い問題を論じています。たとえば、Hallelujah (ハレルヤ) という単語を第2部の最後の有名なコーラスで用いているのは、明らかにジェネンズではなく、ヘンデル自身がやったことである。従ってまた、この楽しい曲をこの位置に置いたのも、ジェネンズのテクストとは無関係にヘンデルがやった仕事である、等々、多数。
お詫び
この小書物は、残念ながら、未完成に終ってしまいました。8、9割がたは出来上がったのですが、日数の制約のために、未完成のまま、発行してしまいました。
すなわち、4月28日の演奏会の会場でこの小書物を配ることにしたので、何とかその日に間に合うように必死になって原稿を書き続けたのですが、残念ながら、間に合いませんでした。
仕方がないから、当日配布したこの小書物は、第2部 (イエスの受難と復活、キリスト教の成立と宣教)、及び第3部 (終末における人間たちの救済)
については、非常に重要に思えるいくつかの曲だけを拾い出して丁寧に解説しましたけれども、それ以外の多くの曲については、解説をまるごと省略いたしました
(一応書いたけれども、まだ文章としてまったく整っていないので、公表する部分から削除した)。そして、一応仕上がった部分だけを大慌てで印刷、製本して、何とか演奏会前日までに作り上げ、当日、会場で配布した次第です。
そういう次第でこれは、部分的にも未完成ですし、文章そのものも、いく日も徹夜を重ねて、印刷屋さんに渡す当日の朝に辛うじて仕上がった原稿を、ほとんど読み直し修正する時間もなく、文章を推敲する時間もなしに、大慌てでそのまま印刷してしまいました
(その結果、たとえば、添付の誤記誤植訂正表)。その意味でも、これは、未完成の、途中経過の報告です。
いずれ、時があれば、そういった欠陥を補って、もう少しさまになる仕方で公表したいと思っておりますが、現状では、こんなものでお許し下さいますように。
これでも、問題提起としては、非常に多くの面白い事柄が含まれていると思いますので、お読みいただければ幸いです。
以 上