G・F・ヘンデル メサイア

             コレギウム・ムジクムによる演奏会


                     及 び、そこで配布する

                    歌詞対訳、及び対訳への解説と註について


(1) コレギウム・ムジクムによる演奏会
 会場案内 川西市立 みつなかホール  電話 072-740-1117
          〒666-0003 川西市丸の内町 5-1
          阪急宝塚線 川西能勢口駅 (快速等、すべて停車)
          駅の東口より出て、東方に向い、阪急線の高架にそって徒歩5分。 猪名川の少し手前。

 入場券
   大阪コレギウム・ムジクム事務所に問い合わせていただくと、予約できます。
    インターネット予約 www.collegium.musicum.or.jp/ticket
     このサイトの 「定期演奏会ほか主演公演」 の項目の中の、2019年4月28日の項目
      を見つけて、そこの「チケット予約」 をクリックして下さい。
     日数に余裕があれば、入場券を郵送してもらえますし、余裕がなければ、予約だけしておいて、
      入場券は当日、会場入り口で受け取ることもできます。
    当日売り 予約なしで会場に行っても、もしも座席に余裕があれば、入場できます。
    電話でも予約できます、06-6926-4755
 入場料 (全席指定)
   A席 4,500円、 B席 3,500円、 学生 1,800円 (当日2,000円)、高校生以下 800円 (当日 1,000円)

(2) 私が作成した歌詞対訳
 英語歌詞と、日本語訳を左右に並べたもの。
 本文、A4版8頁
 当日の来場者に無料配布

(3) 小書物 『メサイアの歌詞に対する解説と註』、 A5版 198頁
  演奏会当日に会場にて発売、1冊多分 1000円ぐらいの予定。
  今のところ、当日の会場での発売以外は、広く公刊する予定はありません。
  しかし、日程の都合で、「註」 は、演奏会当日までに全部仕上げることができず、第2部と第3部については、比較的重要ではないと思われる曲については (すみません)、とりあえず註を省略しました。 その他、ちゃんと書いた部分についても、まだまだ分析を深め、文章ももっと推敲し、等々の作業をやった方がいいかな、とも思えますので、もしかすると、あまり遠くない将来、市販する書物として公開することになるかもしれません。 しかし、その件については、今のところ、予定は、まったくの白紙です。

 この小書物の内容
 序説 (全38頁)
  1. はじめに、言語と音楽
  2. この対訳と註を書きたいと思った理由
     正文批判の問題、 翻訳によるずれ、 欽定訳とメサイアの歌詞の相違
  3. コレギウム・ムジクムに感謝
  4. メサイア (Messiah) という語
  5. ヘンデルの年譜
  6. ヘンデルとジェネンズ、メサイアのテクスト
  7. 英語訳聖書の歴史
  8. 凡例
  9. あとがき

  以上のうち、たとえば 「ヘンデルの年譜」、「英語訳聖書の歴史」 は、簡単な一覧表ですが、お手元にあれば便利だろうと思って、入れておいたものです。
  ほか、書物として必要な前書き等は別として、議論として是非お読みいただきたいのは、1. 言語と音楽2. この対訳を書きたいと思った理由、及び 6. ヘンデルとジェネンズ、です。

  1. はじめに。言語の意味と音楽の音
  もちろん、言語の意味と音楽の音は、それぞれ人間のなす表現手段の中でも最も重要なものですけれども、両者まったく別の水準、それそれまったく異質の領域の事柄であって、一方の水準で表現できることとは他方の水準では表現できず、逆もまた真です。
  もちろん、それぞれの表現が表わしている事柄の雰囲気は、互いに通じるところがあるので、それで 「歌曲」 というものが成り立つのだけれども、しかし、それはあくまでも雰囲気が共通しているということであって、言語が伝えようとしている 「意味」 は、おのずと、それなりの雰囲気を持っているので、その雰囲気を音楽に翻訳して表現することはできる。 そして、二つの異なる表現手段が重なりあうことによって、表現が厚み、深みを増すから、だから歌曲が歓迎され、人気があるのだけれども、しかしやはり、あくまでも、そこでは 「共通する雰囲気」 が作り出されている、ということであって、だからと言って、言語の意味そのものの微細、緻密な正確さが音楽によっても表現される、というわけではないし、音楽の音が生み出す表現の独得な質、味わい、等々が言語の 「ことば」 によって表現されるわけでもない。

 つまり、歌曲のように言葉を同時に音楽として表現する場合、そこで示される言語的な意味と音楽的な音の間にはある種の雰囲気の共通性がある、というだけのことであって、両者が同質、同一であるわけではない。ただ、まるで異なる水準の二つの表現手段が共同して、一つの雰囲気を形成している、ということなのである。
 けれども、以上のように言えば、なかなか恰好いいけれども、実際には、本来はまったく異なる表現手段であるものを組み合せるのであるから、うまくいかなければ、そこにはすぐに何らかの齟齬が生じる。そして、人間がやる仕事である以上、うまくいかない場合の方が、はるかに多い。

 それは、特にオラトリオのような領域で、容易に生じやすい。オラトリオは、基本的には、オーケストラの音楽である。典型的な器楽曲。そして、器楽曲というものの特質は、言語表現とは関係なしに、楽器がかなでる音だけで (つまり純粋に音楽的な音だけで)、一つの作品が形成される。
 しかし、そのオーケストラの上に、歌手が歌う歌をのせたら、曲としての歌だけを考えれば、それ自体としては音楽の音だから、音と音を重ねただけであって、より複雑、重層的な音楽が形成されるだけなのだが、しかし、歌というものは、単に音楽の曲というだけではありえないので、嫌でも、歌詞を伴う。歌詞の本質は言語である。言語の言葉は、言語的な意味を表わすものである。そうすると、オーケストラという、最も器楽的な音楽 (純粋に音楽的な音の世界) を生み出す組織の上に、歌手が、言葉 (言語としての意味の表現) をもって歌う歌をのせてしまうのだから、両者の間に齟齬が生じても、当然なのである。 特に、作詞者と作曲家が異なる場合は。

 議論の途中を抜かすが、ヘンデルのメサイアの場合も、いや、メサイアの場合は特に、この齟齬は顕著である。
 それを従来の評論家は (特に日本の音楽評論家は、メサイアの曲も歌詞も立派な作品でございまして、両者は心から敬虔なキリスト教信仰心を深く表現しております、なんぞという、歯の浮くような誉め言葉を並べて、話をすませようとする。 こいつ、どうやら歌詞のほとんどは、ろくに理解していないな、いや、それどころか、こいつそもそも、歌詞をちゃんと通して読んだこともないな、と言わざるをえない、軽薄極まりない水準である。そしてそれにともなって、曲の方も、敬虔な信仰心を音楽として深く表現した、最高傑作のオラトリオです、とか言って (これまた歯が浮きすぎて、急いで歯医者に駆けつけないといけなくなる)、すませておいでになる。こちらは、あいつ、途中で何度も居眠りして、この曲の演奏をきちんと通して聴いたこともないのだろうな、と言いたくなる。少なくとも、歌詞が表現している意味と、音楽が表現している質とが、どのように調和して一つの事柄をうまく表現しているのだろうか、という問いをもって聴いたことなぞ、一度もないのだろうな、と。

 私は、ヘンデルの曲、特にメサイアの曲は好きである。 しかしいつも、聴く度に、その中にしばしば、この曲がどうしてあの歌詞についているのだろうか、と、違和感を抱かざるをえない曲が存在することが気になっていた。
 その違和感と取り組むために、今回、まず正確な対訳を皆さんに提供し、その上で、その歌詞の一言一句まで、それどころか、単語の綴りの端々にいたるまで、細かく気にしながら、歌詞についての註と解説を書いてみようと思ったのである。
 その際もちろん、音楽については、ずぶの素人である私であるから、なるべく音楽そのものについては口を出さないように注意したが、どうしてあの歌詞にこの曲がついているのか、ということを考えようとすれば、嫌でも、多少は、曲そのものにも立ち入る必要はあった。 その点は、お許しいただきたし。

 ついでに横道の一言。 メサイアの歌詞は100%旧新約聖書の引用である。従って、上記のような、また以下に述べるような、細かい、緻密な分析の作業は、聖書文献学者でないと、不可能である。他の人でも絶対に不可能とは言わないが、その場合は、本気になってやろうとすれば、天文学的な数字の時間がかかってしまう。つまり、この仕事は、普段から私のような領域で仕事をしている人間がやらねばならない義務である。

 もう一つ横道。その引用文の7割弱は旧約からの引用である (残りは新約)。 従ってこの作業をやろうと思えば、嫌でも、そもそも旧約の原文の一つ一つがどういう意味で言われているのかを、正確に把握しないといけない (もちろん、西暦前数百年などという古い時代の文献である。今からでは、そもそも何が言いたいのか、正確なところはわからない、という個所も多い。そのことも含めて、一つ一つ正確なところを把握しないといけない)。 そして、メサイアの引用文は (主として、欽定訳をのまま)、つまり聖書のそれぞれの個所の英語訳だが、は非常にしばしば (ほとんどとすべて、言ってよいくらいに)、原文の意味とはまるで乖離した翻訳をつけている。 このことは、メサイアの歌詞がどうのこうのとおっしゃりたがる評論家諸氏は、もっと骨の髄から認識しておかないといけないのだが、とりあえず言わねばならないことは、私は今回この作業を通じて、日本語の世界では、旧約聖書というものは、まだまだ、ほとんどまったく知られていない、何故なら、原文の文章の意味がほとんどまったく伝わっていないからだ、という事実を痛感したのである。 それは、まだまだあまりに悲惨な水準である、と。
 しかし、まあ、しょうがない。相手は西暦前数百年の文献である。 それで当然なのかもしれない。 しかしそれなら、せめて、それで当然、という認識ぐらいは、皆さん持っていただきたい、と思う。

 2. この対訳をどうしても自分でやろねばならぬ、と思った理由

 私の識見もひどく限られているから、もしかすると単に私が知らないだけかもしれないが (そうであることを祈る)、これまでのところ、日本語の世界では、ヘンデルのメサイアのテクストの対訳は (ないし対訳でなくとも、翻訳だけでも) 存在していない。これは、驚くべき事実である。 「対訳」 と称するものは、いろいろと出版されているが (演奏会で配られたり、CD の付録という形だったり、等々)、いずれも、ヘンデルのテクストの訳ではない。 いやそもそも、「訳」と言えるような代物ではない。
  「対訳」 と称して、彼らは (ひどい奴になると、「訳者 誰野彼兵衛」 とかと堂々と自分の名前を表示していらっしゃる。自分は何の翻訳もしていないのに、それで 「訳者」 と称するのだから、たいした勇気である)、他人がおやりになった聖書のその個所の翻訳を、そのまま右から左へと書き写しているだけなのだ。

 何とまあ、あきれたことに、彼らは、そのあたりに出まわっている日本語訳聖書 (口語訳、新共同訳、ないし他の訳であろうと) の訳文と、ヘンデルのメサイアの英語テクストでは、まるで違う代物だ、という、ごく初歩的な事実さえ、御存じないのだ! だいたい、聖書の日本語諸訳 (現代になってなされたもの) は、基本に置いている原典 (ヘブライ語ないしギリシャ語) のテクストが、メサイアの歌詞の主たる作成者である Ch. ジェネンズ が無責任に右から左に書き写してきた欽定訳(1611年訳!)が基本に置いていたテクストと、ずい分と違うものである、という事実さえ、御存じない! 元に置いている原文のテクストがずい分違うんだから、訳文もあちこち大きく違っていても、当然ではないいか。(まさかねえ、こんな初歩的な事実さえ知らない奴が、聖書引用集であるメサイアの歌詞の対訳に手を出そうとは! これって、すでに、ほとんど詐欺行為だよ)。

 それに、ジェネンズは、欽定訳を引用する場合も、けっこうしばしば、ちょこちょこと、細かく表現を書き変えている。つまり、「ヘンデルのメサイアの英語の歌詞」 を翻訳します、とおっしゃるのであれば、ジェネンズさんのこれらの書き変えも含めたジェネンズ版の英語文を翻訳しないといけないのに、まさかねえ、口語訳だの新共同訳だのの訳文を右から左にそのまま書き写して、これがヘンデルのテクストの「対訳」です、とおっしゃって、世間に公表なさるのだから、盗作以下の水準、としか言いようがないではないか。

  提案 『メサイア』 (に限らないが) の歌詞は英語で書かれている。だったら、この歌詞の対訳をやって公表したい人は、自分で、自分の力で、その英語の文を理解し、自分でその英語文を日本語に訳しなさいな。それは、ある意味では、簡単な仕事である。

 その他、いろいろ多くの問題。 詳しくは、私のこの小書物の序説をお読みいただきたし。

 6. ヘンデルとジェネンズ

 通俗的な紹介では、メサイアの歌詞は Ch. ジェネンズ (一時、ヘンデルのパトロン的な立場で、ヘンデルを助けた、ないしいろいろ手出しをした人物) が作成して、ヘンデルがそれに曲をつけた、と言われている。 確かに、一言で言ってしまえば、そういうことになるだろうが、事はそんなに単純ではあるまい。 本当にヘンデル自身はその歌詞に自分では一切手を加えず、歌詞の個々の聖書引用文の選択についても、一切自分の意見を入れていないのだろうか? まさかね。
 だいたい、ごく常識的に考えても、ヘンデルほどの水準のすぐれた作曲家が、ジェネンズさんが、次は 「メサイア」 をやりましょう、と決めて、歌詞を勝手に作り上げ、それをぽんとヘンデルさんに手渡して、「はい、これに曲をつけなさい」、と言われて、かしこまりました、とおとなしく、言われたとおりに音楽部門だけを請け負って、おとなしく作曲に専念しました、などということが、あるわけがないではないか。それじゃ、ヘンデルはジェネンズ親方に雇われた丁稚奉公の子分、ということになってしまう。
  ヘンデルほどの音楽家、つまり芸術家であり、創作者である人間は、言語のことばと、音楽の曲とをくっつけて一体化するという難しい作業をするのに、しかもそれを 「ヘンデル作」 として公開し、演奏するのに、歌詞については一切無関心で、あなたまかせですませました、などというわけにはいくまいに。
 まさか、そんなわけにはいかない、ということを証拠づける資料は、やや間接的な資料ではあるけれども、いろいろある。

 メサイアの歌詞について考える上での基本課題は、歌詞のどの部分にヘンデル自身の意見が反映しているかを、見分ける作業である。
 これについて私は、「序説」 のこの個所で、我々が基本的に取り組むべき課題を列挙し、その上で、一つ一つの曲の解説で、そのことを常に意識的に問題として取り上げた。

 歌詞本文についての解説と訳註 (全159頁)
 この章がこの書物の中心部分である。以上の基本方針の上に立って、個々の歌詞について、なるべく細かく、丁寧に註をつけました。

 基本的には、そもそもその文の原文 (旧新約の諸文書のヘブライ語、ギリシャ語の本文) の正確な意味はどういうものであるか、欽定訳等の 16,17世紀の英語訳が、原文の意味とどれほどひどく乖離しているか。 要するに、これをキリスト教会の公の正典とみなして、つまりキリスト教の公のドグマを正しく表現している絶対的に権威ある書物とみなしして、「訳」 そうとすれば、原文の意味を大幅にねじまげる以外に、手はないのである。 現に、彼らのやらかした旧約聖書の翻訳は、そういう代物にしかならなかった。 しかし、まさかね、西暦紀元前数百年に書かれたユダヤ教の文章が、後2世紀以降に徐々に成立していったキリスト教なるものの正統主義のドグマを書いているわけがないではないか。

  旧約の諸文書は、当時のユダヤ教の文書である。 それもしばしば、非常にごりごりの他民族排他的なユダヤ教文書である。 もちろん、中には、そのユダヤ教社会の中で支配的なユダヤ人絶対主義に対して批判的な姿勢を保っている少数者も存在しないわけではないけれども。
  つまり、旧約の諸文書は、そもそも古代ユダヤ教文書であるのだから、相当極端に改竄しない限り、それをキリスト教会の絶対的な教科書に作り変えることなぞ、無理である。 その改竄を大幅にしでかしたのが、16,17世紀の英語訳聖書なのだ (仏語訳や独語訳もある程度はその欠点を免れてはいないが、英語訳ほどひどくはない)。 それに対して、現代の旧約聖書の翻訳は、まだまだ不十分であるとはいえ、そういう欠点を乗り越えようと、大幅に努力してきている。 従って当然、欽定訳等の訳文と (それをほぼそのまま引用したメサイアのテクストも)、 現代になされた旧約の諸訳の訳文が、同じであるわけがないだろう。

  もう一つ我々の課題は、ジェネンズの作ったテクストが、どうして、細かくは、欽定訳等々と異なっているのか。
  そしてもう一つ、付録的に、日本語で出まわっている聖書訳のその個所の翻訳が、どれほど原文の意味とも、諸英語訳とも、隔たっているか(残念ながら、日本語訳の水準が西洋語諸訳よりもだいぶ低いせいであるが) についても、時々ふれた。

  しかし我々の主たる課題は、上記の二つの大きな問題、一つは、ヘンデルのメサイアのテクストは、100%ジェネンズが書いたものではなく、時たまではあるが、ヘンデル自身の意見がそこに含まれているとすれば、それはどの個所に見出されるか (それは、どういう分析方法によって見つけることができるか)。
 もう一つは、それと関連して、歌詞のテクストと、ヘンデルがそれにつけたが、果してどの程度、うまく対応しているのか、いないのか。対応していないとすれば、どういう理由か。

 これは、非常に面白い問題です。結論だけ言うと、ヘンデルが心をこめて、歌詞が表現している事柄を、何とか音楽としても表現しようとしている場合 (一つだけ例、他にもいくつもありますが、第2部23番、He was despised ...., 等々)。
  あるいは、ほとんど対応していない場合。 こちらには二種類あり、一つは、そもそもまったく対応せず、ヘンデル自身もその気がなく、適当にお茶を濁している場合。
  もう一つは、歌詞のうちの一部の表現にだけ対応している場合。 こちらは、歌詞のうちの一部の単語 (ないし語句)にだけ着目して、それにうまく合った曲を作曲すれば、いかにもヘンデルらしい曲になって、まことに楽しく、従ってその曲のファンも大勢いる、という場合。 しかしこの場合も、その引用文全体の趣旨にはまるで対応していない (一つだけ例、第2部26番、All we like sheep, 等々。私は、こういうのって好きですが。実際、実に楽しい曲になっている)。
 そしてそれらの場合の中間的な場合がいろいろ多数。
 こういう問題を一つ一つ気にしながら、是非この小書物をお読みいただいて、メサイアの曲そのものをお聴きいただければ、幸いです。
 
                                                                                    以 上

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