宗 教 と は 何 か

2006年5〜7月、2巻に分けて発行
改訂増補版 (新書版)、洋泉社


 上巻 2006年5月8日発売開始。 全320頁。 定価1500円(+消費税)
  現在第2刷(名目上6月14日発行)
 下巻 2006年7月8日発売予定。 本文約250頁+後書き、索引など。 定価1500円(+消費税)
   下巻には索引がつけてあります。これは上下2巻全体に対する索引です。

 下巻は頁数がやや少ないので、定価もやや安くできるかと思いましたが、上巻と同じになってしまいました。むしろ上巻の方の定価を押さえてあると御理解下されば幸いです。

   ☆   ☆   ☆   ☆

 初版は1984年3月、大和書房発行。
 その後、表紙だけ変えて(新装版1985年、新々装版1988年) 何度か刷りを重ねましたが(中身はまったく同じ)、担当編集者の小川哲生氏が大和書房をやめた結果、いつの間にか、品切れ状態でほっておかれたものです。

 それが、このたび、その小川氏が洋泉社の編集者となって、そこから新書の叢書を発行なさることとなり、その中の一部として、本書を新書版で再発行することとなりました。
 今度は新書版ですから、上下2巻に分けます(下記参照)。

 版を改める(新たに新書版用に版を作る)ので、良い機会ですから、読み易くなるように、ずいぶん書き直しました。

 上巻は、第2部は文章を全部打ち直しました。 従って、細かいところはずい分と書き直してあります。 第1部と第3部は、自分で打ち直したのは一部分です。 その部分は、文章は大幅に書き改めてあります。
 それ以外の部分は、多少語句を訂正した程度です。
 本当はもう少し全面的に手を加えたかったのですが、何せせっかちな出版社で、思いついたらすぐに仕事にかからないと気がすまない、という次第ですので (12月29日に提案してきて、1月末には原稿をよこせというのだから!)、残念ながら、全面改定の時間的余裕はありませんでした。

 下巻は、多少時間的余裕があったので、全部自分で打ち直しました。 従って、かなり大幅に文章を書き変えてあります。

 上下巻とも、初版の時よりは、だいぶ、読みやすくなったと思います。
 しかし、もちろん、内容的には同じものです。 細かい間違いなどは訂正してありますが。
 加えて、現在の視点からの多少の解説や補足を 「註」 として書き込みました。

 書き直しのために、ずい分とくり返し読み直しましたが、この本に記した宗教批判の課題、宗教をかつぎたがる現代の世相の批判は、最近の日本の世相においては、当時よりもかえってますます、声を大にして言う必要があると思われます。
 また、マタイ福音書については、これだけ詳しい分析はほかではなされていないと思いますので、新約聖書に関する自分の仕事の中では、貴重なものだと思います。

 以下、各巻の目次です。

 上巻
  第1部 宗教を越える
   「近代の克服としての宗教」批判、ほか
  第2部 異質の世界の無視(翻訳に現れた思想の問題)
  第3部(初版の第4部) イエスを描くという行為
   遠藤周作のイエス像、荒井献の盗作

 下巻
  第4部(初版の第3部) 山上の説教によせて
  第5部 実践の観念論(マタイ福音書の思想)

 上巻
 第1部は、「宗教」なるものにいろいろ思い入れしたがる人々の思想に対する批判。
  「知性」は駄目だから「感性」を、と称して、宗教に思い入れしたがる人。
  人間の生きる目的は、とか、人間の生の根源は、とか称して、宗教ないし擬似宗教的な宣伝をやらかし、人間の生きる現実を矮小化する人たち。
  「宗教学」と称する近代主義の学問のうさんくささ……。

 第2部は、小さいけれども面白いと思います。つまり、いくつかの翻訳書に出て来る嘘みたいな誤訳を列挙して、しかし、単に誤訳をあげつらうのが目的ではなく、実は、そういう誤訳をする人たちが無自覚的にかかえているイデオロギーが、原文を正確に理解するのを妨げ、誤訳となって出現する、という現象にメスを入れたものです。日本の評論家諸氏が、こういうものの考え方を無自覚にかかえていたのか、ということがわかって、面白い。
 たとえば、高尾利数という人が、この頃からすでに、やたらと誤訳づくめの翻訳を乱出版し、自分がかかえている陳腐なイデオロギーをその中に組み込む作業をやっていた、とか。
 この第2部だけでも、読む価値があると思います。

 第3部(旧第4部)は遠藤周作さんの 『イエスの生涯』 の懇切丁寧な批判。 この本に限りませんが、日本では、小説家が小説家として多少成功すると、小説以外の多くの分野についても、まったくの素人で滅茶苦茶な思い込みの知識しかないくせに、知ったような顔をして本を書きたがる。 その無責任さ、本を書くということについて節度がなさすぎること、等々に対して、とことんまで警鐘を鳴らす必要がありましょう。 そういった小説家の中では、遠藤さんはまだましな方なのですが、それでも、悲惨に滅茶苦茶。
  しかし、歴史上の人物を理解するとはどういうことか、イエスを描くというのはどういうことか、この際とことんまで反省してみるのも必要なことでしょう。
 附論。 荒井献の『イエスとその時代』 の著作技術について。 その盗作 (盗作だけでもあきれるべきですが、ドイツ語の本を盗作する時に、誤訳して盗作してしまった! 前代未聞の無責任)。 その他 (荒井が、 田川建三がこう言っているが、と言って批判していることは、ほぼすべて、私が実際に言っていることの正反対だったり、まるでねじまげたりしている。 批判したけりゃ、まず正確に理解してからにしろよ。 そして、荒井は、田川建三から借りたとは一言も言わずに、私が書いたことをあちこち、まるで自分がはじめて考えついたかのように自慢して写している。 だったら、せめて感謝ぐらいしたらどうなんだ?)

 下巻
 第4部(旧第3部)は、やや軽く「山上の説教」(マタイ5〜7章)について扱ったもの。しかし、多分、これだけていねいに「山上の説教」を分析した文章は、ほかには見あたらないだろうと思います。今、自分で読んでも、結構おもしろい。「怒るな」というせりふの分析とか(あれは、やはりイエスが言ったのではないだろう)。

 第5部は、福音書記者マタイが、宗教的 「信仰」 ばかりを唱える連中に対して、それよりも 「実践」 を重んずべし、と主張していることを、 高く評価しつつ、 しかしその種の宗教的 「実践」 の主張がいかに観念的に舞い上がるかを、分析したもの。 マタイについては、自分としてはとことんまで問いつめて、 可能な限り掘り下げた分析を展開したつもりです。 もっとも、30年前に書いた文章だから、 いろいろ稚拙なところもありますが (従って、今回の新書版に際して、ずい分と多く書き直しました)、 内容的には、自分としてこれ以上マタイ福音書を掘り下げることはできない、という程度に仕上げたと思います。

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