『新約聖書・訳と註』 第6巻 公同書簡とヘブライ書 作品社
  この巻の特色  (5) ヨハネ書簡


(5) 第1、第2ヨハネ。 他方、第3ヨハネ

  第1、第2ヨハネは、おぞましい 「異端」 排除の文書である。

  新約の中にも、最後期になると、「異端」 排除を唱える文書がぼつぼつと出はじめる。

   すでにパウロ自身が、その基本精神からすれば、その威張りくさった姿勢からしても、
   基本的な質としては 「異端」 排除的な質の人物であったが、
   まだこの段階では、キリスト教会内にさまざまな 「流派」 が拮抗する状態ではなく、
   多くのキリスト信者が一人一人それぞれ、自分の仕方で、キリスト信仰を保ちつつ、
   かつ全体としてしっかりした協力関係にあったので、
   パウロとて、まだ、はっきりと形をとった 「異端」 排除は口にしていない。

  擬似パウロの牧会書簡、第2ペテロ、ユダ書になると、はっきりと、「異端」 を排除しようという文言が出て来る。
  けれども、この段階でもまだ、この著者たちがどういう相手を 「異端」 と考えていたのか、はっきりしない。
  むしろ、何となく、この著者たち自身が自分でもよくわからずに何となく、
  「間違った教えはいけませんよ」 といった程度のことを言っているだけみたいである。

   この点は、もっと検討を要するけれども、あまりに資料が少なすぎて、多分これ以上のことはわかるまい。

  けれども、第1、第2ヨハネとなると (及び、黙示録に後になって第 2〜3章を書き加えた奴)、
  はっきりと自分の目の前に、自分たちが 「異端」 として排除しようとする相手を具体的に見ている。

  いや、むしろ、話は逆か。 歴史上すべての 「異端」 排除と同じこと、彼らの場合も、
  自分たちが排除したいと思う相手がまず存在した。
  そして、その相手を排除する口実を作るために、あいつらは 「異端」 だ、というレッテルを貼りつける。
  つまり、排除が先で、排除の口実として、「異端」 というレッテルを利用するのである。

  たいていの場合、その排除行為のきっかけは、けちくさい権勢欲、
  自分たちが一番偉いと思って、この宗教集団を牛耳ろうとするけちくさい支配欲、
  等々が元にあって (何なら、以後のキリスト教二千年にわたる 「異端」 排除の歴史を調べてみるといい)
  それで、その相手の人たちを、教会から追い出せ、と騒ぎ立てるのである。

  こういう場合、たいていは、「異端」 というレッテルを貼られた人たちの方が、しごくまっとうな考え方をしており、
  人柄としても穏やかで、愛情があり、他の人々と調和的であり、等々、ということが多い。
  第1、第2ヨハネの場合は、たまたま資料が残っているので、そのことがはっきりわかる。
  つまり第3ヨハネ書簡は、第1、第2ヨハネの連中が追い出そうとして、嫌がらせをしかけた、
  その相手の人たちの一人である。、
  第1、第2ヨハネの 「異端」排除運動の被害者の側の人物が書いたものなのだ。

  第3ヨハネは2、3分で読める。是非お読みいただきたし。第1、第2ヨハネをお読みになった後では、一服の清涼剤である。
  穏やかで、他人を受け入れる人柄で、「異端」 排除なんぞやってはいけないよ、と静かに呼びかけている。
  この著者みたいな穏やかな人たちを、第1、第2ヨハネのグループの連中は、
  「あいつらを追い出せ」 と実にえげつない口調で、ぎゃあぎゃあと叫び立てている。
  第1、第2ヨハネの 「異端」 排除の策動が、いかにえげつないものかは、
  その被害者である第3ヨハネと読み比べることによって、よくわかる。

  第1、第2ヨハネが排除している相手は、どうやら、
  後世になって 「キリスト仮現論者」 と呼ばれるようになった人たち (doketistai) を指しているみたいである、
  と今までは解説されてきた。
  しかし、そもそも後世になって 「仮現論者」 と呼ばれた人たちの本当の実態があまりはっきりしないのだが、
  ましてや、第1第2ヨハネの段階では、この著者たちが 「異端」 と決めつけた相手が、
  本当のところ何をどう考え、主張していたのか、よくわからないのである。

    後世に 「仮現論」 というレッテルを貼られた意見。通説によれば、この 「異端」 の人たちは、
      神の子は人間の姿をして現れたのだが、それは仮の姿、そのように見えただけで、
      本当は神の子は永遠の存在なのだから、死ぬわけがないので、
      イエスという 「人間」 が十字架上で死んだ時には、神の子キリストはイエスの肉体から抜け出していた。
    という意見を主張していた、ということになっている。
    しかし本当のところ、こういう意見を、誰がどこでどの程度、どういう仕方で主張していたのか、いなかったのか、
    よくわかっていないのだ。

   すみません、今回発行の第6巻ではまだ、ヨハネ書簡の項目は最後に書いたので、
   もう日数が足りなくなって、大慌てで仕上げないといけない状態になっていました。それでつい、手を抜いて、
   何となく学界で常識として言われている 「仮現論」 なるものが、実際にはっきりと存在していて、
   第1、第2ヨハネが排除しようとしている 「異端」 も、その意見を唱えていたのだろう、と、解説してしまいました。
   こういう手抜きはいけませんね。 もっと丁寧に時間をかけて自分で調べるべきだった。

   しかしその第6巻でも、他方では、
   第1、第2ヨハネが批判している相手の実態は、第1、第2ヨハネを読むだけではわからない、
   むしろ彼らの方が、第1、第2ヨハネの著者と徒党の者たちよりは、ずっとまともにものを考えていた、
   ずっと立派な人たちだった可能性が高い、という程度のことは、記してあります。

  しかし、この原稿完成後に、更にいろいろ調べを進めてみて、かなり正確な像が見えてきたと思います。。
  いや、「異端」 とみなされた人たちの正確な像というよりは、
  第1、第2ヨハネが彼らに貼りつけようとしていたレッテルの中身が見えてきた。

     第1、第2ヨハネと非常に近い関係にあるアンティオキアのイグナティオスの文章をいささか丁寧に精査し、
     (いわゆる使徒的教父の一人ですが)
     2世紀末頃に 「仮現論」 の 「異端」 として退けられた 「ペテロ福音書」も検討しなおしてみた結果です。
     (こちらはいわゆる新約偽典の一つです)
     本来、そこまでの作業をやってから、原稿を全面的に書き直し、その上で出版社に渡すべきでした。
     しかしそれをやったら、原稿を出版社に渡すのが今年の2月頃になったでしょうから、
     出版は更に遅れて、夏前頃になってしまったでしょう。
     この叢書、ある程度は約束の期日どおり発行し続けないといけないので、御寛恕ください。

  その結論を一言だけ書いておきますと、やはり、第1、第2ヨハネの著者たちはおそろしく狭隘にごりごりで、
  復活信仰に関する些末の項目にこだわり、
  自分たちと一緒になってそれを信仰しない奴はみんな 「異端」 だ、と騒ぎ立てている。
  そしてその言い分は、表看板としては、自分たちは、神の子が本当に肉体をもった人間として現れた、と信じている、
  自分たちこそが、キリストの 「人間性」 を本当に信じているのだ、と豪語している。
  それに対し、あの 「異端」 の連中は、この信仰を否定するけしからん連中だ、と。

  けれども、彼らが 「キリストの人間性」 として信じていた実際の中身は、何でしょうか。
  実は、第1、第2ヨハネの著者が固執しているのは、
  キリストが復活した後、弟子たちの前に現れた、その時、弟子たちは自分の眼で、
  本当にあのイエスが復活したのかどうか、しっかりと観察し、
  十字架上で槍で突かれた傷跡が本当に残っているかどうか、直接さわって確かめてみた、という点なのです
   (ヨハネ福音書20,24以下、ルカ24,39 の伝説参照)
  彼らは、ほとんどこの点だけに固執し、この点ばかりを強調している。
  彼らは復活伝説の中でも、この話ばかりを、金科玉条のようにふりまわした。

  彼らだけでなく、彼らに近い仲間であるアンティオキアのイグナティオスも同じ。
   「(この話からわかるように) キリストは、復活した後も、真の人間だったのだ」 、
  (復活のイエスが弟子たちに) 「(パンを)取れ、私に触れ、私を見ろ」と言った、
  という点ばかりを、むきになって強調している。

  第1ヨハネがこの話に対する 「信仰」 を金科玉条、表看板にしていたことは、その冒頭からして、鮮明です。
  「我々が自分の眼で見た、我々が観察し、自分の手でふれたもの」(1,1)。
  「見た」 と言いながら、更にくどくもう一つ 「観察した」 とつけ加えた。 我々は復活のキリストを
  直接見ただけではない、丁寧に観察したのだぞ、ということ。
  そしてこれは、「神の子イエス・キリスト、生命のロゴス」 をさすのですが、
  「ロゴスたるキリスト」 を我々は自分の手で触ったのだぞ、という表現は、表現としては、何とも奇妙です。
  ロゴスを手でさわる、などというのは、表現として、まるで意味をなさない。
  しかし第1ヨハネの著者は、上記の復活伝説をほとんど唯一の表看板としてかついでいたから、
  「我々は復活したイエスの身体に直接触って確かめてみたのだぞ、どんなもんだい」 と言い立てたのです。

  これが第1ヨハネの表看板であり、すべてであり、「異端」 排除のための 「正統主義」 的ドグマであることは、
  第1ヨハネの冒頭の宣言にこれが記されているというだけでなく、
  (この文の奇妙さが、かえって、著者がむきになってこれに固執していることを示す)、
  アンティオキアのイグナティオスも、ほかならぬ 「仮現論」 批判を言い立てている個所の中で、
  これと同じ点をむきになって強調していること、
  そしてペテロ福音書はまさにこの点に反対する仕方で復活伝説を叙述していること
   (だから彼らはこれを 「仮現論」 の文書として退けた)
  等の点からして、あまりに明かです。

  とすれば、第1ヨハネの著者たちの徒党は、上記のこの復活伝説を認めない者に対して、
  お前らはキリストの人間性を認めない 「異端」 だ、と決めつけていたことになりましょう。
  しかし、そうだとすれば、これはひどい話です。

  もしもキリスト教のドグマの前提に立つとしても、
  神の子が人間として此の世に現れた、というのであれば、
  それは、かつて地上で生きていたイエスという男の生涯を指すはずです。
  それなのに、そのことはまったく無視しておいて、
  神の子の 「人間性」 とは、復活して人々の前に現れた時にも、ちゃんと、槍で突かれた傷跡が残っていた、
  我々はその傷跡に直接さわったのだぞ、と言うばかりでは、少なくとも、あまりにちゃちである。
  あまりにちゃちに迷信的である。


  こんな話は、福音書伝承の中でも最も最後の時期にしか出て来ない。マルコ、マタイには出て来ていない。
  もちろん、マルコ、マタイには、こんないかにも迷信的作り話が入り込む余地はない。
  パウロもまた、こんな伝説話とはまるで縁遠かった。
  パウロが自分で復活のキリストに出会った、と主張しているのは、確かにそれ自体としては、
  これまた宗教的幻想にすぎませんが、しかし、
  パウロはまさに自分は、幻想のキリスト、姿は見えず、声しか聞こえなかった、
  そういう神的な存在として、復活のキリストに出会ったのだ、と思っていた。
  復活のキリストの傷跡を手でさわってみました、などというのは、彼にとってもはまるで想像外だったでしょう。
  等々、1世紀末近くまでは、ヨハネ20,24以下、ルカ24,39 のような迷信的作り話は、
  そもそも語られることもなかったのです。

    そしてヨハネ福音書の著者は、この伝説が存在していることは知っていたけれども、
    こういう伝説を有り難がってふりまわしている人たちを軽蔑して、
    手で触って確かめてみましたので、それを証拠に信じますよ、などというちゃちな話では、
    神 (神の子) に対する信仰になるわけがないので、
    「見ずして信じる者が幸いなのだ」、と痛烈な皮肉をあびせかけている。
    ところが、そのヨハネ福音書をよく知っているはずの第1ヨハネの徒党は、
    ほかならぬ、「俺たちは復活のキリストの身体の傷に直接触ったのだぞ」 、
    ということを金科玉条にしてかついでしまった。

  まだまだイエス自身の思い出が濃厚に残っていたあの時期に、ある程度以上まっとうなキリスト信者なら、
  こんな幼稚な迷信信仰に、賛同するわけがなかったでしょう。
  だから、この種の迷信的伝説を金科玉条としてかつぎたがった第1、第2ヨハネの著者たちは
  (またアンティオキアのイグナティオスとその仲間たち)、
  逆にかえってむきになって、
  この話を信じない奴、この話を俺たちと一緒にかつぎまわらない奴らは、みんな異端だ、ぎゃあぎゃあ、と騒ぎ立て、
  彼らに同調しない者たちを、むきになって排除しようとした……。

  正統主義者による 「異端」 排除の実態というのは、いつも、このように、うさんくさく幼稚なものなのです。
  しかしその幼稚な嫌らしさがもたらす実害は大きい。

  すみません、第6巻にはまだここまでは書いてありません。以上は、その後にいろいろ調べた上の結論です。
  いずれ、『新約概論』 を書く時に、本格的な論証を含めて、きちんと書くことにします。 ここはまだ予告編。
  従って、以上の点についてつべこべおっしゃりたい人は、すみませんが、『新約概論』 が出版されるのを待って、
  その丁寧な論証をお読みになった上で、ものをおっしゃって下さい。

  しかし、第6巻にもすでに、ある程度示唆的には、このことにふれております (たとえば 1,1 の註)。

  さて、もどって、第1第2ヨハネたちのえげつない 「異端」 排除。
  以上の私の説が正しければもちろん、そうではないとしても、第3ヨハネと比較し、新約の他の諸文書と比べてみても、
  どう考えても、第1第2ヨハネたちがむきになって排除しようとしている相手の人たちの方が、
  ずっとまっとう
で、穏やかにものを考えていたのは確かでしょう。
  そういう人たちを、この連中は、むきになって排除しようとした。

  その排除の仕方は、おそろしく幼稚、従ってまた極めつきに嫌らしく、低級で、質が悪い
  相手の意見が気に入らなければ、落ち着いて話し合い、議論すればいいではないか。
  しかしこの連中はそういう能力を持たない。 何故なら、そういう落ち着いた姿勢そのものを持とうとしないからである。
  だから彼らは、頭ごなしに、俺たちと一緒にこのことを信仰しない奴らは、みんな 「異端」 だ、けしからん、
  我々の教会から追い出せ、と、ただただぎゃあぎゃあと騒ぎ立てた。

  実際、第1、第2ヨハネを読んでごらんになると、そのことはすぐにおわかりいただけます。
  何の説明もなしに、ただただ、あいつらは悪い奴らだ、と宣言、レッテル貼りをくり返すのみ
  いつまでたっても、同じ悪口のせりふ、同じレッテル貼りを、あきもせずに、くり返し続ける。
  あいつらは 「兄弟」 (つまり彼らの党派のこと) を 「愛さない」、「兄弟」 を憎んでいる、
  「兄弟」 を愛さない者は、「神を愛さない者だ」、(兄弟を愛していないのは、どっちなんだ ?! )
  あいつらは 「反キリスト」 「惑わす者」だ、あいつらには 「真理」 はない、「罪を犯している」、[闇の中にいる」、等々。

  こういった短いせりふを、何の説明もなしに、あきるほど何度も何度も、呪文の如くいつまでも、
  壊れた蓄音機みたいに、延々とくり返すのみ。
  これこそ、この種の幼稚な、幼稚ではあっても極めて有害な、徒党を組む正統主義者の基本体質というものです。

  それが露骨に現れるのが、この著者が唯一具体的に書いている事柄。
  彼らは言う、
  あの連中の仲間が (と言ったって、つい昨日まで、同じキリスト教会の信者として一緒にやってきた人たちである)、
  他の町から旅行してやって来て、あなた (=彼らの仲間) のところを訪れてきても、家に迎え入れるな

    当時、何せ古代ですから、キリスト信者は仕事その他の用事で、他の町を訪れる時には、互いに互いを訪問し、
    宿泊させてもらい、いろいろ便宜をはかってもらうのが常だった。
    この種の互助組織、互助関係は、キリスト信者に限らず、同郷会みたいな組織とか、いろいろあった。それなのに、

  昨日まで同じ信者であったとしても、あいつらは悪魔だ、
  我々の 「キリストを触った」 信仰を受け入れない奴は、異端だ、
  あいつらが来ても、家に入れるな、すでに入れていたとしたら、追い出してしまえ
  万が一町の道で出会ったとしても、絶対に口もきくな
  (イグナティオスも同種のことを記し、「町の道で出会うこともないように気をつけろ」 と言い立てている)。

  これ、今時の日本の中学生の一部に見られる、実にしょうがない 「いじめ」 の典型じゃないですか。
  キリスト教会という名前をつけながら、ここまでえげつなく、嫌らしい、悪質、低級な 「いじめ」 の実行を、
  むきになって言い立てていた奴がいる。
  何ともうすら寒い話ですが、これが人間の歴史というものです。 キリスト教会とて、例外ではありえない

  幸いにして、この時期ではまだ、全体としては、これはまだまだ少数の、えげつなく安っぽくはね上がった連中の現象、
  というにすぎなかった。
  多分、第3ヨハネの 「長老」 のような穏やかで、常識的な人たちの方がずっと多数だったでしょう。
  この時期のキリスト教会には、まだまだ、もっとまともな、すぐれた人が多かった。

  しかしすでに新約聖書の中に姿を現したこの黒い影は、やがて、古代末期に向うにつれて、どんどんと肥大していく。
  そして中世キリスト教になると、御存じのように、おぞましい 「異端狩り」 の旋風が吹き荒れた。

  確かに、読書としては、このように嫌らしいもの、このように極度に低級としか言いようのない代物を読むために、
  わざわざ時間を使うのは、不愉快な思いしか残りませんから、おやめになった方がいいでしょう。
  しかし、我々は、歴史の事実を避けて通ることはできない。
  やっぱり、こういうものも新約 「聖書」 の中に存在している、ということを認識していただくために、
  一度でいいから、第1、第2ヨハネも読んでおいて下さいますように。 不愉快な思いをちょっとの間我慢しながら。

  最後に、この文書のもう一つの特色は、そのギリシャ語の嘘みたいな稚拙さです。
  これほどにギリシャ語を知らない奴が、よくもまあ、偉そうに、知ったような顔をして、これだけ言いつのったことよ、
  としか言い様がない。
  語彙が滅茶苦茶に少ない。 だから、同じ表現、同じ単語ばかりを
  (ほんのいくつか、すぐ数え上げられる程度の量の)、いつまでもくり返す。
  文法、文体もおそろしくお粗末。 だから、同じ文型の (それもやたらと舌足らずな)、同じ表現だけを、何度も何度も、
  下手なお経のように、くり返し続ける。 まさに、壊れた蓄音機、音痴の鸚鵡。

  このすさまじい文章を、私は、できる限り直訳しておきました。
  これをギリシャ語で読む時の、ひどく鼻につきすぎて、うんざりする感じを、多少とも読者にお伝えするために。
  また、註では、できる限り詳しく、この著者のギリシャ語のこの特色を、一つ一つ解説しておきました。

  と言うと、第5巻をお読みくださった読者の方々は、ヨハネ福音書に余計なつけ加えを多く入れ込んだ
  あの 「教会的編集者」 の文章を思い出されるでしょう。
  まさに、ギリシャ語の特色からして、そして考えていることの内容からしても、
  第1、第2ヨハネの著者は、福音書の教会的編集者と一つ穴の狢です。
  同一人物だろう、と想像する学者もいるくらいです。
  福音書の教会的編集者は、他の点では同じですが、まだ嫌らしい 「異端」 排除には走っていないみたいですが。
  
  以上です。

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