『新約聖書・訳と註』 第6巻 公同書簡とヘブライ書 作品社
    この巻の特色 その1

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(1) はじめに、ここまでの仕事の感想
   これは、言い訳を書いただけで、たいした話ではありません。
   本巻の内容にすぐ入りたい方は、(2)以降をお読み下さい。
   ただし、この項目の最後の 「影的存在の(軌道の)転位」(aposkiasma) については、語学的にかなり面白いはずです。
(2) ヤコブ書
(3) ヘブライ書
(4) 第1ペテロ
(5) 第1、第2ヨハネ。他方第3ヨハネ
(6) 第2ペテロ、ユダ書 
(7) 全体について、「公同書簡とヘブライ書」


 (1) はじめに  ここまでのこの仕事の感想

  『訳と註』 の最初の巻が発行されたのは2007年ですが、出版の具体的な計画を決断したのは2004年、
  それからすでに10年以上たちました。
  10年以上というと、中学1年に入った子どもが大学2年生になるまでの年数です。
  その間ずっと、多少は他の仕事もしましたが、ほとんどこの仕事にかかりきりになっていた。
  それなら、普通に能力のある人間として、10年分の能力の成長があったはずです。
  つまり、最初の巻 (第3巻) と今発行しようとしている第6巻の間には、その分だけ実力の差があっても当然です。

  この仕事は主として語学 (古代の言語) と、歴史的知識の蓄積に基づきます。どちらも、蓄積だけがものをいう。
  どちらも、非常に微細な個々の知識を、数え切れないほど大量に蓄積していくことから成り立つ。
  そしてこの蓄積は積めば積むほど増えていって、決して減ることはない。
  若い頃と今と比べても、かかった年数の分だけ進歩するのは当然のことです。
  
  ということは、今からふり返れば、最初の数巻は、まだまだとても自慢できるほどの水準にはなかった、
  ということです。

  自分では精一杯やっていたつもりでも、実は、まだまだ借り物の知識に多く頼っていた。
  その分だけ、知識が生きていなかった。

  これは言語を通じて、古代の一人一人の著者の用いている言語を通じて、その著者と向いあう仕事です。
  それが、言語の知識が不十分だと、どうしても、その著者自身と向いあうことができず、
  既成の解説やらレッテルやら何やらかにやらを頭に置いて、その著者に貼り付けることをやってしまう。
  従って、どうしても、その著者の生きた姿が見えてこないし、その著者と向きあうこともできない。

  この状態からある程度脱け出すことができたのは、第5回配本 (第2巻下) の 「使徒行伝」 の巻ぐらいになってからです。
  御覧いただいても、「使徒行伝」 の巻と次の 「ヨハネ福音書」 の巻は、それ以前の巻と比べて、
  知識の生きた感じが格段に違うことは、すぐにおわかりいただけますでしょう。
  今回の第6巻は、そこがもう一段階上に抜けたかな、という感じがします。
  相手の生きた感じがかなり生きた感じにつかめてきた、というか。

  言語の知識と歴史的知識は、いずれも、極度に微細な知識、それ一つでは何の意味もないような微細な知識を、
  ただただ、できるだけ大量に集めて、積み上げていく作業です。
  そしてそれがある程度積み上がると、ふと、全体が鳥瞰図的に大きくつかめるようになる。
  しかし実は、その数年後になってみると、見える鳥瞰図の広がりが更に格段に広くなり、
  図そのものの緻密さもまるで違ってくる。

  ですから、今になって読み直せば、最初の第3巻、第1巻などは、許されることなら、もう一度全部、
  現在の知識の水準で、全部書き直してみたい、という誘惑にかられます。
  しかし、仕事をすることによって進歩するのは当然のことですから、
  前の仕事は前の仕事、その時点での自分の最高の努力をしたわけですから、それはそれ。
  今となっては、常にその次の巻で更に前に進んで行く努力をするより仕方がありません。

  誤解のないようにつけ加えておきますが、そうは言ってもこれは、『訳と註』全巻の中で相互に比較すれば、の話です。
  最初の4分冊 (第3、第1、第4巻、第2巻上) も、それ自体としては、すでに十分な水準に到達している。
  さもなければ、出版したりはいたしません。
  それだけ取り上げれば、十分に信用していただくに足る高水準です。
  たとえば、自分の 『書物としての新約聖書』 と比べても、『訳と註』 の最初の数巻の方が、だいぶ水準は上です。
  水準が上ということは、その分だけ、読者にとってはわかり易い、ということです。

  ただ、同じ 『訳と註』 の中で比べれば、その中でも、だんだんと進歩してきている。
  これは、避け難い現象です。常に進歩し続けるのでなければ、学問の仕事にはならない。
  そしてこれは、真面目に仕事をしている学者ならば、誰もみな同じことです。
  ですから、今から5年もたったら、今回発行する第6巻についても、同じような思いをいだくことになるはずです。

  しかし、だからとて、以前に発行した巻を永遠に書き直し続けるという、賽の河原の石積みのような作業を、
  残念ながら、やり続けるわけにはいかない、ということです。

  ともかく、今度の第6巻では、前よりももっと、言うべきことを鮮明に言えるようになった。
  これは、その事柄そのものではなく、それを認識する裏付けとなる語学的知識と歴史的知識の微細な点を
  大量に身につけてきた、ということです。
  もちろん、先を見れば、まだまだ無限のかなたに自分にはわからないことが広がっていますけれども、
  少なくとも、以前よりはずっと鮮明に見えてきた。
  だから第6巻では、前よりもずっと、言うべきことをわかり易く、鮮明に言い切ることができるようになった。

  これはもちろん、他方では、わからないことはわからないと鮮明に言い切れる自信と対になっています。
  むしろそちらの方が多く、かつ重要です。
  人間の知識には限界がある。その事実の前に、常に謙虚でないといけない。
  自分にはよくわからないけれども、学界の通説になっているから、とか、有名な学者の意見だから、とかいうのを
  知ったかぶりしてそのまま借りてくるような手抜きはしない、ということです。
  学界の通説であれ有名な学者の御説であれ、しっかりした根拠のないものは駄目なので、
  そんなものに依拠することはしない、ということです。
  従って、現在の世界の学問の水準からすれば、本当は、この点はわからないのだよ、私にはわりりませんよ、
  とはっきり言い切る、ということです。
  わかったような顔をして書いている奴は、ものを知らない、ということ。

  そこを自信を持って言い切れるようになって、はじめて、わかっていることも鮮明に言い切ることができる。
  その意味で、今度の第6巻は、多くの点で、わかり易い本になった、と思います。

  5年前の実力だったら、まだ、薄々そうだなと思っていても、第1ペテロというのは
  ひどく低級で陰湿な身分制社会の支配倫理をキリストの名によって押しつけようとするえげつない文書だ、
  初期キリスト教史の中では、一方ではこういうものもうごめきはじめていたのだ、ということを、
  ずばっと、鮮明に言い切ることはできなかったでしょう。

  あるいは、第1、第2ヨハネは、ギリシャ語の実力があまりにたどたどたどしいけれども
  (そこまでは学者ならば誰でも知っている事実である。 しかし皆さんそれを正直、露骨に言い切ることをしない)、
  自分ではあたかも立派な文章書きであるかのような顔をして、威張りくさって (その点が実に嫌らしい)、
  おそらく世界の宗教史上でもめずらしいくらいに低質、下劣なものの言い方をくり返し、
  ただただえげつなく、嫌らしく、自分たちの仲間にくみさない者に 「異端」 の名を冠して、
  
あいつらを教会から追い出してしまえ、と騒ぎ立てている、
  ということを、率直そのままはっきりと言い切る自信はなかったでしょう。

  本当はそれが事実なのだ、と腹の中では思いつつも
  (本当は、私だけでなく、ある程度以上の水準の学者なら、誰でも知っていることですが)、
  やっぱり、そこは新約聖書の中に組み込まれた文書、そこまで露骨はっきり言い切るには、勇気が必要だった。

  しかしこの勇気は、唯一、ただただ大量の、微細な語学的知識、単語の意味一つ一つ、
  文法文体の技法の微細な一つ一つについて
  ある程度以上十分な知識を積み上げる、その作業からしか生れてきません。

  あるいは逆に、ヤコブ書がどれだけすぐれた文書であるか、その特色をはっきり浮かび上がらせる
  (こちらの方が作業としてはけっこう難しい)、
  その作業も、3年前だったら、今回の巻ほどには、できなかったでしょう。

  極めて微細な例を一つだけ、面白いから紹介しておきます。
  1,17 の 「父のもとでは影的存在の (軌道の) 転位などという変化は存在しない」 という文を
  このように正確に訳すことなぞ、3年前ならとても思いつかなかったでしょう。

  それが今回は、なんだ、これはこういうことだ、と、すぐにすらすらと気がついた。
  これはもちろん、aposkiasma (私は 「影的存在」 と訳した) という他の文献にはほぼまったく出て来ない
  めずらしい単語の意味を、語の形、比較的似たような語の造語の仕方、比較的似たような語の用法、
  等々をどんどんと並べていって、それとの比較の上で考える、という
  そういう語学の基本中の基本の手法をすぐに気軽に実践する姿勢が身に付いた、ということですが、
  しかしここはそれと同時に、この文にすぐ続く 「主は意図して我々を真理のロゴスによって産み出し給うた」 という句に見られる
  「ロゴス」 という語を、この著者がものを考える上でどのように基盤に置いているか、ということが、すっと鮮明に見えてきたから、
  それとのつながりで、aposkiasma の方もすっと見えてきた、ということです。

  だから、全体として、ヤコブ書の 「ロゴス」 思想が我々にとってどれほど面白いものか、ということも見えてきた。
  それで今回の第6巻では、ヤコブ書についてかなり鮮明な解説を書くことができるようになった、ということです。

  新約聖書にかなり慣れていらっしゃる方々でも、「ヤコブ書のロゴス思想」 なんて、聞いたことがない、
  とおっしゃる方が多いでしょうか。
  あんなにはっきりと、くり返し、出て来るのに。

  従来の翻訳では、これを 「神の言葉」 と訳してきた。そして、 「神の言葉」 とは
  キリスト教の宣教師が伝えた 「福音」宣教 の言葉のことだ、と解説なさった。
  何でもかんでも我が田に水を引くことしか考えるんじゃねえよ!
  まさかねえ、原文には単に 「ロゴス」 としか書いてないんですよ。こんなんじゃ、古代のすぐれた著者の文章を理解できるわけがない。
  
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