『新約聖書・訳と註』 第7巻 ヨハネの黙示録 作品社
     2017年8月末発行

 目次 お読みになりたい項目をクリックしていただくと、その個所に跳びます。
(1) 黙示録という文書、思い切った新説を展開
(2) 二人の、正反対の書き手の文章の混成
(3) 両者あまりに正反対
(4) どうして、そういうことがわかるか
(5) 後世への影響 
(6) 時間のない読者の方々へ  (長くなったので、別ページにしましたが、まず、このページ末の「時間のない読者の方々へ」(特にその末尾に書き足した「読書案内の案内」)をお読みいただき、そこから、「読書案内」のページに移ってください)
(7) 印刷の仕方、印刷条件の設定の仕方

  このページそのものもやや長いので、印刷してのんびりお読みになるのがいいかもしれません。インターネット画面の方が鮮明ですが、紙に印刷なさっても、かなり読みやすいように編集してあります。B5判の紙に印刷していただくのがほぼ手頃なように想定して文章を割り付けております。また、ご覧のような文ですから、色印刷にしていただく方が読みやすいです。なお、このページの末尾に、慣れない方のために、インターネット画面の印刷条件の設定の仕方を書いておきます。

 (1) 黙示録という文書。思い切った新説を展開

  思い切った新説と言っても、別に、奇をてらった想像だの、ちょっと見た眼には面白いかな、などという思いつきだの、
といった類のものではございません。 すでに19世紀後半から20世紀はじめの、つまり聖書学が徹底的に批判的学問たろうとしていた時代に、個々の個所について非常に数多く指摘されていた問題点を、総合的に洗いなおし、それらの問題点のすべてに誠実に取り組めば、この結論以外にはありえない、というところにおのずと到達した、というだけの話です。

 (2) 二人の、正反対の書き手の文章の混成

  現在我々が手にしている黙示録、つまり古代から (2世紀の半ば頃から) 諸写本によってこの形でずっと伝えられてきた文書ですが、これは二人の、すべての点でまるで正反対の書き手の文章が、交互に次々と並べられている、その点では、まことに奇妙な文書です。
  混成というよりも、元々の著者 (原著者) の文は全体としてほぼみごとに整った文章なのですが、その間のあちこちに、やや後の編集者が、まったく無秩序に、自分の勝手な思い込みを雑然と、かつ大量に書き入れしまった。

  この編集者の文は、ところどころ、非常に長く続いていますが (1-3章、8-9章、14章後半-16章。 また19-22章の大部分)、それだけでなく、しばしば原著者の文章の間、間に、短い文や語句を思いつきで次々と挿入している。それも、原著者の文とは正反対の趣旨の文や語句を、何の断りもなく、勝手に挿入する。 あるいは逆に、原著者の短い文の前後に、それとは正反対の趣旨の非常に長い文を書き入れる。

 (3) 両者あまりに正反対!  この二人は、あらゆる点にわたって、あまりに正反対である。

  1. ギリシャ語の語学力
  原著者のギリシャ語もかなりたどたどしいが (かなりヘブライ語、アラム語の発想に依存している)、しかし初歩的な文法についてはしっかりしており、たどたどしくても、文意はほぼ鮮明であり、内容的には非常にしっかりしていて、意のあるところが読者によく通じる。 ほぼ、マルコ福音書の著者のギリシャ語の水準に匹敵すると言える。

  それに対し、編集者のギリシャ語は、そもそもギリシャ語とは言えない程度にお粗末極まりない。 知っているギリシャ語の単語や表現をまるで無秩序に並べ立てただけ。 しかも、知っている単語と言っても、本人が知っていると思い込んでいるだけで、しばしば語義も滅茶苦茶。 ひたすら恥ずかしい、としか言いようのない代物である。
  文法的にも、ごく初歩の間違いがうなるほど大量に出て来る。 名詞等の格の間違い、動詞の時制の間違い、前置詞や接続詞の嘘みたいな貧困、その他いろいろ。 そして文体的にも、これでギリシャ語かよ、と溜息をつきたるなるようなすさまじい構文、構文とは言えないような単語の羅列……。
  ここまでギリシャ語の能力が違う文章が同一の書き手によるということは、絶対に不可能である。

  2. 基本的な質、向いている方向の違い
  編集者は極めて低水準に、しかし極めてごりごりのユダヤ民族主義者で、ユダヤ民族以外はすべて殺しつくさるべし、と、口を開く度に、そればかりを騒ぎ立てている! それがこの人の 「終末待望」 であるが、それがこの人の唯一の関心事である。 終りの時に、世界中の異邦人が滅ぼしつくされ、殺しつくされる! 自分たちユダヤ人 (ないしユダヤ主義キリスト信者) のみ救われて、天的至福の世界に迎え入れられる!

  原著者はこれと正反対に、何度も何度もくり返し、世界中の諸民族、諸言語の者たちが、みんなそろって、いずれ神のもとに迎え入れられる。 そこでは、もはやいかなる差別、弾圧もなく、飢え、渇く者もいなくなる。 彼らの、これまでのこの世の苦労の中で流した涙を、神がぬぐってくださる、と、平和な、穏やかな、願いを記し続ける。

  3. 現実と取り組む姿勢の決定的違い
  原著者は、しかし、甘く平和な未来を願望しているだけではない。 その叙述の主眼点は、現在の世界の支配状況、現在の世界を支配している勢力、その基本構造の批判である。 つまり、ローマ帝国の世界支配が、そこで生きているすべての住民をいかに抑圧しているか、という批判。 そして、その批判の眼は的確である。  ローマ帝国支配の本質を、個々の皇帝だの、支配層の貴族だのの個別の現象に見るのではなく、その支配の基本構造、つまりローマ帝国支配の基本構造たる古代資本主義の支配に、しっかりと批判の眼を据えている。
  後にカール・マルクスが有名な 「貨幣物神」(Geldfetisch) の理念を導きだしたのも、黙示録原著者のこの文からである。 確かに、黙示録原著者の文はまだまだ素朴、直感的にごく短く自分の思いを指摘しただけであるが、叙述は素朴であっても、質的には深く、鋭く、説得力を持つ。
 そして彼は、世界を支配するこの支配経済機構、つまりローマ帝国支配は、いずれ神によって徹底的に壊滅させられるだろう、と予言した。 予言というか、願望というか。 人間が作り出した人間を支配する機構がこれ以上人間を抑圧しつづけるのは許されない、と。

  編集者は、しかし、原著者のこの特色をまったく理解しなかった。 彼はひたすら異邦人に対する憎悪を、極度な民族的排他主義を、言い立て続ける。 文章の脈絡なぞなく、ただただ、異邦人はみんな殺しつくされるぞ、と叫び続ける。 せっかく原著者の文書を借用して、そこに自分の文章を書き加えて発行しながら、原著者の文章が何を言おうとしているかを、まるで、まったく理解しなかったのだ。 彼はただ、原著者の文章がローマ帝国支配の崩壊を予言しているのに手掛りを得て、それは世の中全体の終末の話だと勘違いし、それなら、世界中の異邦人が殺しつくされる話を大量に書き込もう、と試みたのである。

  4. 品性の違い
  本質的には以上のとおりだが、その文章ににじみ出る人間としての基本の質もまた、両者はまるで異なる。
  編集者は、異邦人 (非ユダヤ人) はすべて穢れた存在、間違った存在、従って徹底的に排除され、殺しつくされねばならぬ、と思い込んでいる。 この種の異邦人排除、他民族排除、他民族皆殺し主義は、もちろんそれ自体としてすでに、ひどくおぞましい、人間的品性として許し難い質のものであるが、そのことを書き記す彼の文章には、全篇にわたって、人間的にひどく低級な品性が多く露出している。

  たとえば、世界中の異邦人が殺しつくされたその死骸に、さまざまな鳥、猛禽類がむらがって食いつくす、などという情景を嬉しがって描く。 あるいは、彼らは殺しつくされると言い立てるだけでは満足せず、殺される前に、殺される苦しみをできる限り長引かせるために、当分の間死ぬことも許されず、死の苦しみを死なずに長々と苦しみ続けるという情景を嬉しがって描く。 あるいはまた、彼らは一度死ぬだけでなく、二度目の死を死ぬのだ、残酷な死を二度味わうのだ、そして二度目はもっと恐ろしい死だぞ、と嬉しそうに言いつのる。 その他、いろいろ多数。
  私がこの編集者に 「編集者S」(Sはサディストの略)というあだ名をたてまつった気持は十分にご理解いただけよう。

  それに対し原著者は、この世の中で苦労して生きている、生きてきた、すべての人々に対して、何度も呼びかける、「彼らはもはや飢えることなく、また太陽や灼熱が彼らの上に落ちかかることもない。 ……そして神が彼らの眼から涙をすべて拭い去って下さるであろう」 (7,17)、 「見よ、人間たち (世界中のすべての人間、すべての民族、言語の者たち) と共にある神の住まい。……神は人間たちの顔からすべての涙を拭い去って下さる。そしてもはや死は存在せず、嘆きも叫びも苦痛もない」 (21,4)、ほか、多くの同様の文。
 穏やかな平和が、このように世界のすべての人々に訪れることを願っている人物が、同時に、自分たちユダヤ民族 (ないしユダヤ人キリスト信者) 以外のすべての人間が恐ろしい仕方で殺され、殺しつくされ、またまた更に残虐に殺しつくされ、更にまた殺しつくされ……、などと言いつのるわけがないではないか。

 (4) どうして、そういうことがわかるか
  以上が私の分析である。黙示録の全篇を、一単語一単語、重箱の大量の中身も隅々も、あっちもこっちも、丁寧に細かく分析した上での、私の結論である。

  もっとも、こんなことは、普通の常識をもってお読みになれば、本当なら、誰でもすぐに気がつくはずのことである。 直前の 「品性の違い」 の項目にも書いたように、同一の人物が、ここまで正反対の品性を同時に身に保ち、その正反対の両方を一人で言い続けるなぞ、ありえない中でもありえないことである。 あるいはまたローマ帝国支配について、 あれだけみごとに帝国支配の、その経済支配の現実を批判した人物が、そんなこと、まったくおかまいなしに、そのローマ帝国によって支配されている世界の諸民族がみんなみんな殺しつくされるぞ、ざまあみろ、などと書きつのるわけがないではないか。

  いやそもそも、一方では世界中のすべての民族、すべての言語の者たちが、まったく差別なく、みんな神のもとで穏やかに幸せに生きるようになる、と心やさしく願っている人物が、それと同じ人物が、他方では世界史上稀に見るほどに嫌らしく、おぞましく、ユダヤ人以外の他民族はすべて穢れたおぞましい存在であって、殺しつくされねばならぬ、などと言いつのるわけがないではないか。

  そして、何よりも単純明快に、ギリシャ語の能力。 語学力の水準ばかりは、誤魔化せないものである。一方で、あれだけきちんとしたギリシャ語を書く人物が、他方では、初級文法もままならず、単語の意味の理解も滅茶苦茶、構文も、そもそも文章になってさえおらず……、 などというすさまじいギリシャ語を突然書きだすわけがない。

  以上につき、ギリシャ語については、古代ギリシャ語をある程度御存じない方であれば、御自分で判断なさることはできないだろうが、しかし、そういう方の場合でも、私の細かい註を逐一全部お読みいただければ、両者の極端な実力の相違は、すぐにおわかりいただけよう。

  他の諸点については、今度発行する私の訳文をお読みいただくだけでも (つまり、可能な限り極端な逐語訳にしたもの)、両者の違いは一目で見分けがおつきになるだろう。 いや、既存の諸訳をお読みいただくだけでも (黙示録については、既存の日本語訳はみな新約の他の部分の訳と比べても格段に水準が低く、細かいところは、すさまじい誤訳、改竄に満ちてはいるけれども、それでも)、おおまかな問題は何となくおわかりになるはずである。 どうも何となく話が一貫せず、ぎくしゃくして、つながらないねえ、といった程度のことは。 これを、同一の著者の、きちんと筋の通った文章であると説明するのは、とても無理であるというぐらいのことは、すぐにおわかりになるだろう。

  つまり、私の新しい学説は、新しいと言っても、誰でもすぐにわかる程度のことを、正直に言い切っただけである。
  問題は、では、これまでの聖書学者は、なぜ、こんな鮮明なことに気がつかなかったのか、ということだ。
  話は簡単。 彼らは、鮮明な事実を正直に認める勇気がなかっただけの話である。 これについて、詳しくは、この巻の註をあちこちお読みいただきたし。

  いや、これまでの学者でも、特に19世紀後半~20世紀はじめの学者たちは、個々の点については、すでにこういうことによく気がついていた。 しかし彼らは, 個々の点について多く気がついてはいても、それを総合的に全部まとめて考えることをしなかっただけである。 しかしあの時代はまだまだ新約聖書について批判的な学問を徹底する作業がはじまったばかりだったから、個々の問題点を気がつく度に指摘するというだけで、精一杯だったのだ。 だから彼らにそれ以上の責任はない。 ただ、その後に続く世代の聖書学者たちが、それを継承、発展させる作業を怠っていただけのことだ。
  つまり私がやった作業は、19世紀後半~20世紀はじめの批判的な学者たちがそれぞれ個別には気がついていた多くの現象について、それを総合的に、すべて相互に関連づけ、更に、自分の眼で原文の細部に至るまで徹底して洗い直して、彼らが気がつかなかった問題点 (しかし本質的には同趣旨の問題点) を多く見出し、そしてそれらの問題点をすべて組み合せて説明できるような総合的な仮説を提案しただけである。

 (5) 後世への影響

  黙示録という文書は、以後のキリスト教会において、多大な影響を与えた文書である。 他の多くの文書は、特に四福音書やパウロ書簡が名目的には重要視されていたけれども、実質的にキリスト教信者大衆に最も大きな影響を与えたのは黙示録であったのだ。 黙示録の、一見、いわば絵画的、漫画的にわかり易い描写が、信者たちにとっては、そしてその信者たちに説教する牧師、聖職者たちにとっては特に、単純素朴にわかり易かったからである。 しかしそのわかり易さの中身は何であったのか。

  実は、後世のキリスト教会に、特に中世キリスト教、そしてまた近代になってもまだまだ、大きな影響を与えたのは黙示録の原著者の文章ではなく、編集者Sの文章、ないしそのイデオロギーであった。 いずれ恐ろしい終末が来ますよ、その時には、今しっかりと神に従い (つまり牧師たちの説教におとなしく従い)、「正しい」 信仰を守っている者だけが最後の審判に合格して、永遠の生命を与えられ、それ以外のすべての者が恐ろしい永遠の劫罰にさらされるのですよ……。 これは、宗教理念としては、単純で、まことにわかり易い。 中世キリスト教は、ほとんどこればかりをお題目のようにくり返していたのだ。

  そして後世のキリスト教はこの点において編集者Sのイデオロギーをもらい受けるために、上手に理念をすり変えてキリスト教化したのである。すなわち、「すべての異邦人」 が滅ぼしつくされる、という句の「異邦人」という語を、「異教徒」 という意味に読み換えたのである。 ユダヤ人ないしごりごりのユダヤ主義者だけが救われ、異邦人は例外なくみな滅びに定められる、という排他的民族主義のドグマを、「正しい」キリスト信者はみな終末の時に救われるけれども、それ以外のすべての人間、つまり 「異教徒」 ないし 「異端者」 は例外なくすべて滅ぼされる、と言い換えたのである。
  しかしこれは、民族的排他主義を宗教集団的排他主義に置き換えただけであって、本質はまったく変らない。 現に、以後のキリスト教西洋は、ずっと、今にいたるまで (例。D・トランプと共和党を背景で支えるアメリカ的キリスト教ファンダメンタリズム。 もちろん、彼らだけではないけれども)、異教徒 (イスラム教徒等々) はいくらでも殺していいと思い込んでいるし、そこまでひどくなくとも (本質的には通底しているが)、自分たちの社会から異教徒は追い出してもかまわない、と思い込んでいる。
  他方、強固なキリスト教社会においては、いったん「異端」 の烙印を押されると、キリスト教国家の庇護を受けることはできなくなるし、それどころか、キリスト教ヨーロッパの歴史においては、「異端者」 の集団が皆殺し的な弾圧を受けることはしばしばであった。

  要するに、排他的閉鎖集団意識の持続という点で、新約のキリスト教 (御存じのように、それはさまざまに異なる、しばしば正反対に異なる要素が多く含まれる複雑な歴史実態だったのだが) の中で、後世のキリスト教の本質的悪を生み、育てる原動力となったのが黙示録の編集者Sだったのだ。 もちろん黙示録だけでなく、パウロ思想もまた一面ではそういう効果を生み出していたし、パウロ派文書はもっとそうだし、第1第2ヨハネ書簡は更にもっとひどいけれども、しかし、黙示録の編集者Sはあの極度にえげつない皆殺し精神の故に、やはり後世への影響が抜きん出て大きかったのだ。 もっとも、そうなったのはもちろん、黙示録だけの責任ではなく、そういうものを無批判に自分たちの教条としてかつぎ続けたキリスト教の歴史の総体に責任があるのだが。

  キリスト教である以上、「正しいキリスト教信仰を持っている者が神によって最終的に救われるのです」 と信じるのは当然ではないか、とおっしゃるだろうか。 しかしこの言葉には、必然的に、論理的必然としても心理的必然としても、その裏面がついてまわる。 「正しいキリスト教信仰を持たない者は救われることなく、永遠の滅びに定められているのです」と。
  つまり論理的必然として、 「異教徒、異端者」 は排除の対象とされることになる。 そしてこれは、決して単なる宗教的終末論信仰でとどまることはなく、必ず、現実社会において、自分たちの民族集団、国家集団等々に属さない者を排除する、という独善的ファシズムを支える心理、心情を育てるのである。 キリスト教社会は、その誕生の時から、こういう負の遺産をかかえこんでいた。 しかもそれは非常にしばしば、そのキリスト教の最も中核的な部分をしめてきたのである。

  歴史上、黙示録がキリスト教に与えたこの負の遺産がどのように現れたかは、それはもう、ちょっと調べただけで、枚挙にいとまがないくらいに大量に見出されるのだが、今回の 『訳と註』 第7巻は本論は 「註」 であるから、そのことにはほとんどふれる余裕がなかった。 しかし一個所だけ、実例を紹介しておいたので、是非お読みいただきたし(2,27 の註のうち 137 頁以下 「鉄の杖でもって」)。 もしも 『新約概論』 を書く機会があれば、 この件はもっと多く実例をあげて論じたいと思っています。

  他方ではしかし、もちろん、これがキリスト教のすべてではない。 キリスト教の中にもすぐれて良心的な伝統は存在している。 そちらはそちらで心して学ぶべき貴重な遺産が多く見出されるのである。
  だから、我々現代の読者にとっても最も重要なことは、同じ黙示録の中にも、編集者Sの文章だけでなく元来の著者の文章も強く存在している、それどころか、元来の著者の文章こそ黙示録という文書の基本骨格なのだ、という事実をしっかりと認識することである。
  この、徹底的に正反対な二人の文章が混ざり合って存在しているという黙示録の実態は、単に黙示録という一文書に限らず、以後のキリスト教史全体を貫く基本の質、根本的な自己矛盾なのである。 そして我々にとって重要なことは、そこに自己矛盾があるから駄目だ、というのではなく、一方でそういうおぞましい質が支配している中でも、それを何とかして克服しようとする質が同時に常に存在し続けた、という事実を認識することである。
  だからこそ、現存の黙示録の文章をはっきりと原著者の文と編集者Sの文章に分けて読む、黙示録という文書の中でさえもこの件について決定的に対立する二人の書き手が存在したのだ、という事実を知る、そして、原著者が後の読者に伝えたいと思ったことがどれほど重要であるかを理解する作業が、現代の我々にとっても、必須の課題になるのである。

 (6) 時間のない読者の方々へ 読書案内
 1. 趣 旨
 さてこの本、全部で 878頁ともなると、実際には、よほど時間の余裕のある人でない限り、とても読み通すのは不可能でしょう。 私が読んでも、ほかのことは全然やらないでこればかりに集中しても、丸8日はかかります。 そういう次第で、とても全部を通して読む余裕はないとしても、読者個々の御興味に応じて、どの頁を拾って読めばいいか、というヒントを、「読書案内」と称して、少しだけ書いておきます。
 ご覧になる方は、まず次の「2. 読書案内の案内」をお読みになった上で、次の文字をクリックして、そちらに移って下さい。→ 読書案内

 と言っても、著者としての私の本音は、もちろん、どの頁も必要だから書いたのであって、お読み下さるのなら全頁を通して読んでください、というのが願いです。 さもないと、十分に説得力が得られないし、場合によっては、誤解しかねない。 どの頁も必要だから書いたのであって、必要でないものはありません。 大量に書いたものを、自分で削りに削って、どうしても必要と思われるもののみを残したのですが、それでも 878頁になってしまったのです。
 特に、個々の点についての御批判は別として、私の根本的な仮説そのものに反論を唱えようという方がいらっしゃるなら、必ずや全部通して読んでからになさって下さい。読まずにつべこべ言うのは許されない!

 しかし、そうではありますが、実際問題として、今の世の中みなさん非常に忙しいし、読書と言っても、いろいろ多くの本をお読みになる必要もおありでしょうから、この本についても、御自分に興味のあるところだけ読むことにしたい、というのが、本当のところでしょう。
  しかし、そうは言ってももちろん、お一人お一人が違う個性をお持ちなので、この本の中でどの個所がその方にとって読む価値があるかもまた、御本人にしかわからないことですから、やっぱり、御自分で最初から急いで頁をくっていただいて、御自分でその個所が読むに価するかどうかを判断していただく以外にないのですが、しかし、そうするには結局、実際に全部お読みになった上でないと、それが御自分にとって本当に読むに価するかどうかの判断もつきかねる、ということになりましょう。 しかし、大きな山に分け入って、自分が探している木の実を発見するのは、なかなか大変です。

 それで、そういう方々のために、最小限に限って読むとしたらどの頁をお読みになるのがいいか、、というヒントを提供するのも、無意味なことではありますまい (ただのヒントにすぎませんが)。

 2. 読書案内の案内
  さて、3週間ほど前に以上のところまで書いて、いよいよその作業にとりかかったのですが、こんなもの、2週間もかかるまい、と思ったのが間違いで、やってみたら恐ろしく大変で、やっぱりうまくいきませんでした。何しろ、こういう作業をやるのは生れてはじめてですから。どんな著者にせよ、自分がせっかく書いた大著をお読みにならずに、適当な拾い読みをなさる読者のための案内書を書くような人はいないでしょう。全部お読みいただくために書いたのですから。しかしこの本は「註」ですから、読者が通読なさるのに便利なように書いてはありませんので、やっぱり、こういう案内は必要でしょう。しかし、実際に書いてみると、恐ろしく難しく、結局うまくいきませんでした。

 ともかく長くなりすぎた(本の頁数にして 40頁は超える)。こんなものを読むくらいなら、書物そのものを読む方が早い、とお思いになる読者の方が多いでしょう。とすれば、この「読書案内」は ひどい駄作、よく言っても、無用の長物

 最初のうちは、なるべく簡単な、ほんの数頁の目次みたいなものを作るつもりだったのですが、それでは、無味乾燥な仕方で項目を列挙するだけになってしまって、そんな項目名を眺めても、読書意欲をそそられる読者はいらっしゃらないでしょう。つまり、どういうことが書いてあるのか、およその内容ないし趣旨がわからないと、その頁を読んでみようという気にはなりますまい。しかし、読者の皆様方にとっては、大部分ははじめて接するような事柄ですから、およその内容をなるべく簡単に、しかし興味をお持ちいただけるように書く、というのは、やはりどうしても、かなり長くなってしまいます。そうでないと、意味が通じない。
 しかし、ご覧のように長くなりすぎたら、まさに無用の長物、役に立たない独活の大木。さて、これじゃ役に立たないから、やっぱりこの企画はやめて、廃棄処分にしようかと思ったのですが、考えてみれば、858頁もある書物の内容を、それも千差万別、あらゆる領域にわたる題材を、主な項目だけでもどういう問題を扱っているかがわかるように書くとしたら、本の頁数にして 40頁ぐらいになったとしても、当り前と言えば当り前。廃棄処分にするのももったいないから、一応ここに掲載してお目にかけることにします。

 最初に詳しい目次 を置いてありますから、それをざっと眺めていただいて、その中から、御自分に興味の持てそうな個所を拾ってお読みいただく、というのが、一応、役に立つ利用法だろうと思います。

 あるいは、ほぼ全部をお読みになる方の場合も、どこに何が書いてあったかを覚えておかれるわけにはいきますまい。その意味では、この「読書案内」は、むしろ、やや詳しい索引として 利用できるのではなかろうか、と思います。

 もう一つ、どうしても先に進めば進むほど欲が出て、長く書いてしまいましたが、そうなるとむしろ、これ自体として、通読していただいても、それなりに面白いのではなかろうか、と思われます。おおざっぱに言って、(4)ぐらいから後の部分がそうです。『訳と註』そのものでは、問題の焦点だけをこのように拾って書くことはでいませんから、そうすると、この「読書案内」はむしろ、『訳と註』本体をお読みにならない方が、大ざっぱに、この本はどういう問題を扱っているかをお知りになる役には立ちましょう。

 ただし、お願いしておきますが、やっぱり、この「読書案内」だけをお読みになって、『訳と註』本体を読まずにわかったような顔をなさるのは、おやめ下さいますように。特に、これだけを読んで、知ったような顔をして批評なさるのは。

  しかし、むしろ、『訳と註』本体をお読みいただく(たとえ拾い読みにせよ)ための 一種の予備作業 として、この「読書案内」なら、少なくともだいぶわかり易いですから、とりあえずこれに目を通していただく、という価値はあるでしょうか。
  それなら、あまり多くの時間をかけずに通読していただけると思います。

  それと、『訳と註』本体では書いてないこと もいろいろ書きました。特に、
 (1)文法的、語学的な事柄は、『訳と註』本体では、古代ギリシャ語についてまったく何も御存じない読者の方々のために、そうそうまったくの初歩の知識から丁寧に説明している余裕もなかったのですが、この「読書案内」では、そういった初歩の予備的知識も少し書いておきましたので、これを予備作業として、その上で『訳と註』本体をお読みいただくと、ややわかり易くなるかもしれません。
 (2)もう一つ、最後の方に置いた バウアー(新約聖書ギリシャ語辞典)と ネストレ(新約聖書ギリシャ語本文印刷本)については、本当は本体巻末の「解説」にこのことを書いておくつもりだったのですが、もはや頁の余裕がなくなったので、省略してしまった項目です。それを、この場を借りて、やや丁寧に書いておきました。新約聖書に関する学問作業について、御自分ではそこまで手をお出しにならない方にとっても、その学問の基本参考文献とみなされるものの実態がどういうことになっているかを、知っておかれても無駄ではありますまい。この項目、かなり面白いかと存じます。

 以上ですが、通読して下さる方の場合、パソコンの前に座ってこの長文を通してお読みになるのはなかなか難しいでしょう。スマホに写して持ち歩く手もありますが、スマホだとますます長文を読むのはご面倒でしょうから、印刷して いただいて、それを電車の中などでお読みいただく手もあります。あるいは、一種の索引として時々利用したい、という方の場合も、印刷して簡単に綴じていただいて、『訳と註』本体と一緒に保存していただくとか。印刷していただくと、これはこれで、けっこう読みやすい代物です。

  もしも印刷なさるのでしたら、私見では、B5判、色印刷で、75%に縮小印刷ににしていただくのが読みやすいです。この形で印刷していただくと、全部で 28頁になります。あるいは A4判で1枚の紙に2頁 を横並びに印刷するか(この場合は、縮小せずに、「拡大/縮小」は100%に指定)。これだと真ん中で二つ折りにして、適当に綴じると、持ち歩きに便利です。
 現在ご覧になっているこの文書(『第7巻』の紹介)も、印刷してお読みになる手もありますが(B5判で10頁になる)、特に、「読書案内」は、印刷していただくのがよろしいのではなかろうかと思われます。

 インターネット文書を 印刷するのに慣れていらっしゃらない方 もいらっしゃるかもしれませんので、その方々のために、以下に、この文書を印刷する方法を書いておきます。余計なお世話かもしれませんが。

 「読書案内」に移るには、右をクリック → 読書案内

(7) 印刷の仕方、印刷条件の設定の仕方
 普通のウィンドウズなら、次の仕方で設定できます。違うインターネットソフトの場合は、これに準じておやりになってみて下さい。

 まず、インターネットの印刷したい項目を開いて、
  (1) その中のどこでもいいから、空いている場所を右クリックする
  (2) すると「すべて選択」と「印刷」という文字が現れるから、そのうち「印刷」を左クリックする。そこで現れる黒地の画面の左側が、印刷条件設定画面です。
  (3) そのうち、最上段の「プリンター」の欄で、自分のパソコンにつないであるプリンターを選ぶ。
  (4) 以下、「印刷部数」「ページ」「拡大/縮小」「余白」「ヘッダーとフッター」 の各欄を、ご必要に応じてセットしてください。

 セットの仕方 は、たとえば「ページ」の欄なら、「ページ」という文字の下の横長の四角の中に、最初は「すべて」と書いてありますが、その四角の中をクリックしていただくと「すべて」「現在のページ」「ページ範囲」という文字が並んでいますから、そのどれかを選んで左クリックして下さい。「現在のページ」は現在画面に映っているページ、「ページ範囲」は、そこをクリックすると、その下に「範囲」という欄が現れますから、その横長四角の中に、必要な頁数を書き込んで下さい。どの頁が御自分に必要かは、この黒地画面の右側に映っているインターネット画面の上の < や > をクリックすることで、次々と頁が現れますから、それで確かめられます。

 (5) 「拡大/縮小」の欄は、最初は「縮小して全体を印刷する」というのが出ていますが、これをやると失敗します。まさか 27頁もあるものを、縮小して1枚に印刷するわけにもいきますまい。そこの横四角をクリックすると、いろいろな%の数字が現れます。この原稿について、私のお薦めは 75%です。
 (6) 「余白」の欄は、慣れるまでは、ほっておかれるのがいいと思います。
 (7) 重要なのは次の「ヘッダーとフッター」の欄で、これは頁数を印字するかどうか、ということです。最初は「オフ」という文字が出ていますが、私の今回の原稿は長いので、頁数が印刷されないと不便でしょう。これを「オン」に切り替えて下さい。
 (8) もう一つ重要なのが、一番下に「その他の設定」という下線つきの文字が出ていますから、これをクリックして下さい。そうすると、それ以外の設定項目が現れます。
 (9) その最初の「印刷の向き」は、普通は「」です。
 (10) 次の「両面印刷」(片面)、「部単位印刷」(部単位)、「シートごとのページ」(オフ)は、普通は、初期設定のままにする。
 (11) 次の「用紙/品質」の最初の「用紙サイズ」の欄で、紙の大きさを選ぶ。これをお忘れなく。ここで「JISB5」というのを選んで下さい。
 (12) 「用紙の種類」「用紙トレイ」「印刷品質」は、慣れないうちは、そのままほっておく。
 (13) 「カラーモード」は、普通は多分「カラー」と表示されているはずですが、もしも「モノクロ」と表示されていたら、クリックして「カラー」を選ぶ。
 (14) あと、「仕上げ」 「フチなし印刷」は、慣れるまでは、そのままほっておく。
 以上で設定は終り。
 (15) 一番下の「OK」をクリックすると、前の頁にもどる。その頁の左下の「印刷」をクリックすると、印刷がはじまります。印刷機に紙を入れるのをお忘れなく。
 (16) なお、上述のA4判で1枚に2頁印刷する方法は、((10) の「シートごとのページ数」を「オフ」から「2ページ印刷」に切り替えていただければ、それですみます。なお、この場合も、(5) の「拡大/縮小」は 100%を選んで下さい。

 → 読書案内
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