『新約聖書・訳と註』 第7巻 ヨハネの黙示録 作品社 についての付録
時間のない読者の方々に、読書案内
この頁、予定よりもずい分と長くなってしまい、自分としては、かなり多くくり返して読み直し、修正の作業をやったのですが、インターネット画面にのせる文字文書(HTML文書)の校正は非常にやりにくく、まだ読みにくい個所、不注意の間違いなど、けっこうあるだろうと思いますが、とりあえず、御寛恕下さいますように。
もちろん、はじめから数字のとおりに順に (1) (2) (3) …… と読んでいってください、という趣旨ではありません。 それくらいなら、書物を最初からずっと読みとおしていただく方がいい。
以下の項目のうち、特に御興味をお持ちになるところを拾ってお読みください、という趣旨です。
目次をつけておきました。色と下線のついている文字をクリックしていただくと、その個所に跳びます。途中からこの頁の最初にもどるには、普通どおり、Ctrl+Home
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目 次
(1)全体の概観
(2)原著者と編集者Sの基本姿勢の違い 1. .諸民族 2. 牧する、
(3)両者の決定的な違いの個所(7章)
(4)原著者の基本主題、ローマ帝国批判(13章)
1. オリーヴ油を損なうな(ローマ貴族大土地所有者のための経済保護政策)
2. 穀物価格のインフレ
3. 古代ローマの資本主義(13章)
4. 第13章のそれ以外の個所
5. 獣の数字は 666
6. 皇帝礼拝に対する抵抗?
(5)物語の頂点、ローマの町と帝国経済の崩壊(18章)
1. 予告(11,18a)、
2. 導入(14,8)、
3. 物語の頂点、18章全体
(6)新しい理想の世界の実現 (20-22章)
1. 「聖なるエルサレム」ではない!
2. 神殿は存在しない!
3. 旧約のせりふの批判的引用
4. 彼らは王である、王となる(著者の基本思想の一つ) 4a. 編集者は王崇拝
5. 全体の結びの句(22,17) 5a キリスト再臨の待望、編集者のドグマ
(7)エルサレム批判(11章)
(8)編集者のギリシャ語(どう下手か)
1. 格の間違い
2. 時制の間違い
3. 前置詞の間違い
4. 単語の語義の間違い
5. そもそも文章の構成力がない!
(9)原著者のギリシャ語の間違い
(10)もう少しだけ語学の問題(それぞれが用いない単語)
1. 患難、 2. 上衣、 3. キリストとイスラエル、ユダヤ人
(11)既存の訳では気がつかない問題点
1. 旧約の訳
2. 万軍の主
3. 聖書協会訳等の問題 3a. 彼女が焼かれる火の煙
(12)新約学の基本文献の用い方、バウアーとネストレ
1. バウアーの辞書の問題
2. ネストレ
(13)その他いくつか
1. 古代の言語の単語の意味が何故わかるのか
2. 西洋古代史のあてにならない知識
3. 初期キリスト教史の知識(編集者Sの文は逆転して読め)
4. 最後に蛇足(アプサント)
(1) とりあえず全体の概観を得るには
各章のはじめ に、それぞれ、その章の概括が書いてあります。それを順に拾ってお読み下さい。 特に重要な章は 6章と7章(7章については、冒頭の「1~8、9~17」という註が全体の概括の代り)、及び 13章。そして特に 18章 は必読です。
他方、以下の各章には概括が書いてありません。
1章(編集者)。本文を斜めにお読みいただけば、およそのことはおわかりいただけます。 ただし 9~11節のみ原著者。 70-71頁の「9~11a」の註を読まれたし。
2~3章は、まとめて95頁以下に書いてあります。
5章は概括なし。4章の続きだから、特に説明を必要としない。
10章は、はじめの概括は簡単すぎるから、9節の「腹を苦くするが……」の註と、11節の「(さまざまな)民、民族……」の註 を読まれたし。
14章もなし。どのみち 14章9節~16章の全体が編集者Sの文。
17章 少ししか書いてありません(すみません)。この章は、原著者の著作年代を決定するために重要。 他はたいしたことなし。
20~22章 概括なし。どのみちほとんど編集者Sの文で、支離滅裂な文の羅列だから、概括も書きようがない。 原著者の文だけ拾って読まれたし。
(2) 原著者と編集者Sの基本姿勢の違いを知るために
1. 諸民族
最も簡単、かつ非常に重要な点。「諸民族」(編集者Sの場合は「異邦人」と同義) という語の出て来る個所を拾って、両者を比べていただくことです。
原著者
5,9 著者の基本姿勢が鮮明に表現されている。 本文の短い文だけで趣旨鮮明ですが、註は、この件に関する個々の単語の意味を丁寧に説明していますから、是非お読みいただきたし。特に、従来の日本語訳の訳語の、あっと驚くような珍訳の羅列も頭に入れていただく必要がある。
7,9 上と同じ 「民族、氏族、民、言語」。ここの註は、この表現の由来も扱っているので、これまたお読みいただきたし。なおこの句は、下記 (3) に関しても要の句である。
10,11 これは、この本の主題を述べただけ。
11,18 とその註。 原著者の著作意図が最も鮮明にわかる個所。ここは、原著者の文の中に編集者が挿入した語句が混ざっているから、註をゆっくりお読み下さい。
21,2 とその註 原著者が、「終末」の後に実現する天的な理想の世界をどう考えているかが鮮明にわかる個所。
22,2 とその註 これも同じ。 一見、何ともない表現のように見えますが、この著者は、旧約のユダヤ民族主義の表現をみごとに批判的にひっくり返している (後述)。その点でも面白い。
編集者
2,26 の註、及び 同27節 のはじめの二つの註。本文をお読みになるだけで、事態は容易におわかりになると思いますが、念のため註も。そして27節の註は、ちょっと面倒かもしれませんが、この件に関する言葉遣いを正確に把握していただくために、非常に重要。27節については、従来の解説者の多くが語の意味を理解せず、まったくおかしな解説を書いている。編集者の「異邦人」皆殺し思想が
後世のキリスト教思想に与えた強い影響 については、特に 27節の最後の註「鉄の杖でもって」(137頁以下) を読まれたし。
19,15 とその註 こちらはもっと鮮明。
20,8 ついでにこちらも本文だけでも。
21,24b-26 上記 21,24 に対して編集者が真向から反対の図をつけ足した個所。ここは、この編集者の実に下手くそな旧約利用の手法の良い例。
2. 牧する
この動詞の用法も、上のいくつかの個所と関連して、典型的に両者の違いを示している。 正確なところ、それぞれの註をお読み下さい。
原著者
7,17 意味鮮明であるから、解説を要さない。 前後の文からしても、極めて意味鮮明。 わざわざ註を読む必要もないほどだが、短い註だから、お読み下さい。
編集者
2,27(19,15 も同じ) 「牧する」という語の正反対の意味になる「鉄の杖でもって」をつけ加えた。どうしてそういうことをしたのか。上の項目ですでに指摘した個所だが、「牧する」という動詞を編集者Sは単語の原義と正反対の意味で用いているみたいえある。どうしてそういう奇妙な語法になったのか。編集者Sはしばしばヘブライ語を頭に置いて、それをギリシャ語に置き換えている。この語については、彼はまずヘブライ語の単語を誤読し、それに応じてギリシャ語の語法までおかしくなってしまったのだ。従来の諸訳はそのことに気がつかないから、訳語を誤魔化して訳し、諸解説は原文を無視した無理かつ奇妙な解説をほどこしておいでになる。
両者混成
12,5 原著者の文だから、基本は 7,17 と同じ。 しかし編集者が自己流の意味に改竄するために、そこに「鉄の杖でもって」をつけ加えてしまったた!
(3) 両者の違いが決定的に現れている個所 (7章)
7章前半 1-8節。 神による救済はイスラエルの十二支族から選ばれた者に限られる。
7章後半 9-17節(編集者による付加を除く)。 世界中のすべての民族、言語等の者たちが神のもとで救済される。
言っていることがあまりに正反対なので、すでに古くから、両者は同じ書き手の文ではない、と指摘されてきた。 この問題にどう答えるかによって(単にこの個所だけにあてはまる説明ではなく、その説明と同じ姿勢で黙示録の全体を説明できるのでないといけない)、黙示録という文書を正確にとらえられるかどうかが決まってくる。
註は、上記(1)でも指摘した7章冒頭の「1~8、9~17」という註のほかに、同 1~8節の註(302頁以下)、4-8節の註 のうち 313-316頁。
7章後半については、編集者による挿入語句を除けば、本文そのものが非常に意味鮮明だから、解説の必要もないので、たいした註はつけていないが、16節の註 (二つだけ) は重要だから、是非お読みいただきたし。
及び、17節の最後の三つの註、「小羊が彼らを牧する」「生命の水の泉へと……」「そして神が彼らの眼から……」もお読みいただきたし。
この三つの句は、原著者が、編集者Sのおぞましいサディスト趣味とまさに正反対の位置にいることを示す。
(4) 原著者の基本主題 ・ ローマ帝国批判
原著者がこの著作によって言いたかった基本主題は、もちろん、上記の編集者S との基本姿勢の違いに限られない。上記の点(諸民族を牧す)は、どちらかと言えば、主題というよりは、基本姿勢である。
それに対し、著者が叙述の主たる目的、ないし 主たる内容 として設定しているのは、ほかにも何点かあるけれども、やはり基本主題と言えるのは ローマ帝国批判 である。 原著者の黙示録は、これを言うために書かれた文書なのだ。 しかし、彼のローマ帝国批判は、狭義の政治、軍事現象としての帝国支配を批判の主たる対象としているわけではない。むろん、そういったこともある程度は頭にあるだろうが(現にところどころ、短くだが、ふれている)、彼は、ローマ帝国支配の根幹が経済支配である、つまり古代資本主義の支配である、ということをよく知っていた。
そしてこれは、現象としては、ローマの貨幣 が地中海世界全域を支配する、という形で顕在化する。 しかしもちろん彼は、単に貨幣という経済現象それ自体を批判しているわけではなく、それに基づいて、広く帝国全域つまり地中海世界全域を支配した古代資本主義の支配、つまりローマ帝国支配を批判しているのである。
このことが頭に入っていないと、黙示録どころか、西洋古代史の全体を見誤るけれども、従ってもちろん、黙示録の原著者の文章も理解できない。
1. オリーヴ油と葡萄酒を損なうな (6,6)
ほんの一言の句だが、この句を正確に理解しているかどうかで、その「解説」者が黙示録をきちんと理解できているかどうかが、すぐにわかる。 小さな点にすぎないが、大きく全体を見はるかす鍵を提供してくれている。
これを、ドミティアヌス帝がイタリアの大土地所有貴族、富豪の 経済的利権を保護するための保護政策に対する批判 だ、と見抜いたのは、フランス人のローマ史家 サロモン ・ レナック(1901年)であった。葡萄酒農業が大儲けのタネになる、と見込んだローマの資本家たちは、自分たちの資本を葡萄酒畑に投下するようになった。 しかしそれが行き過ぎた結果、生産過剰になり、あれほど儲けに儲けていた葡萄酒産業の景気が、後1世紀末頃、つまりドミティアヌス当時に、一気に下落に転じた。
それでドミティアヌスがイタリアでのローマ人の葡萄酒産業を保護するために、属州 (特にアシアやガリア) での葡萄酒農地を半減させる政策を強行しようとしたのである。
黙示録のこのせりふは、当時の経済状況下に生きている人であれば、誰でもすぐに、これはこの政策に対する痛烈な批判だ、とわかるような言葉である。
しかし後世の キリスト教聖書学者 は不勉強だから、そういうことに気がつかなかった。 いや彼らが、ローマ経済史の個々の現象についてまでは知らないことがあったとしても、致し方あるまい。 それを、ローマ経済史の専門家であるレナックが、この論文で、単にこの事実を指摘しただけでなく、それが実際にどういう状況であったのかを、多くの歴史資料を駆使して、目に見えるようにみごとに、丁寧に、描き出してくれたのである。 従って聖書学者たちもこれを読めば、事態が容易につかめたはずである。
けれども彼らは怠慢をきめこんで、この論文をろくに読むこともせず(特にドイツ語や英語の聖書学者、そしてそれを孫引きすることしか知らない日本の聖書学者)、そのくせ、極めて無礼なことに、ろくに読んでもいないレナックの論文の名をあげて、レナックは間違っている、と宣言し、この件に蓋をして、「聖書」の解説に経済史の現実を持ち込む姿勢そのものを排除 してしまったのだ。
これは、「聖書学」 と称する 「学問」 の本質的欠陥 を露骨、鮮明に見せてくれている現象である。
この件をご理解いただくために、少し長いが、是非、レナック説についての付論(248-264頁) をお読みいただきたし。
なお、この件についても著者の言葉遣いを正確に理解していただく必要があるので、その 直前の二つの註(244頁末以下) もお読みください。
2. 穀物価格のインフレ (6,6)
ついでに、同じ 6,6 の穀物価格のインフレについての記述もお読み下さい(240-244頁)。数字をあげているだけの短い句だが、これは極端なインフレを指している。作物の不作を利用して、大金持たちが穀物を隠匿し、大幅な値上がりを待って売りに出してぼろ儲けをする、それに対する呪詛の声なのだ。
そういうことがわかるためには、古代の資料をいろいろ読む必要があるのだが、ここの註は、そういった歴史研究の基本をご理解いただくためにも、読んでいただく価値があると思います。
3. 古代ローマの資本主義 (13章)
著者のローマ帝国批判、その資本主義的経済支配の批判が最も鮮明に展開されているのが 13章である。13章全体が、著者のローマ帝国批判がいかにその資本主義的経済支配そのものに向っているかを、非常によく示しているけれども(従って、13章の註はなるべくすべて お読みいただきたし)、中でも鮮明に焦点を示しているのが 15-17節 の帝国貨幣による支配の指摘、その批判である。
しかし、全部ていねいにお読みになるのも大変だろうから、まず、17節に関する付論 「ローマ帝国の貨幣経済、黙示録とマルクス」 をお読みいただくのがいいだろうか。 これは、上記レナック説と並んで、黙示録理解について絶対不可欠の項目である。
周知のように、カール ・ マルクスは、黙示録のこの個所を手掛りにして、有名な 「貨幣物神」(Geldfetisch)という概念を展開した。『資本論』第1巻の最初の2章はこの概念を中心にして展開されている、と言ってよい。
もちろん黙示録の著者は古代人だから、そのように丁寧に学問的に分析してこういうことを考えたわけではない。 しかし彼は、直感的には、マルクスがつかんだのと同じ問題をつかみとっていた。
ある意味では、当然 かもしれない。 黙示録の著者は、古代資本主義があれよあれよという間に、急速に発達し、その世界のすべての住民を支配するようになった、その時期に生きていた。 新しい世界支配の経済体制が、どのようにしてすべての住民に襲いかかり、すべての住民を搾取していくかを、つぶさに体験せざるをえない時代と環境に生きていたのである。 それは、新しく出現した世界大の資本主義支配に接した「新鮮な」驚き、憤り、恐れの経験 であったのだ。
同じことは、カール ・ マルクスにも言える。 彼は近代資本主義が急速に進展して、世界中の住民を強力に支配しはじめた時代に生きた。 その驚き、憤りの
「新鮮」 さは、黙示録の著者と共通する。 だから彼の『資本論』は、経済情勢の冷たい分析ではなく、人間の生きた息づかいが感じられる、心のこもった著作になっているのである。
ただ、この件をご理解いただくためには、黙示録の 著者の言葉遣いを正確に 理解していただく必要がある。
そのために、16節の五つの註をすべてお読みいただきたし。 聖書学者たちは、ここでもまた、聖なる新約聖書の著者が経済史の現実などという「低水準」の事柄についてものを言うはずがない、これは「崇高なキリスト教ドグマ」の表現でなければならないはずだ、という前提から(何が低水準だ!
そっちの方が桁違いに、とんでもなく低水準ではないか!)、黙示録のこの文はそれとは全然関係のないことを言おうとしているのです、とおっしゃるために、あちこち原文の文意を曲げて、滅茶苦茶に翻訳し、滅茶苦茶な解説 をほどこしていらっしゃる。 そのためには、特に (五つの註を全部お読みいただくのがご面倒なら)、511頁の「すべての者が……自分に、右手の上か額の上に……」の註をお読みいただきたし。 また、気が向かれたら、それに続く 佐竹批判の註「……自分に与えるようにさせる」も。
4. 第 13 章のそれ以外の個所
13章全体が基本的に同じ精神の表現であるが、上記16節以外に、特色のある表現についていくつか。
3節 「獣の頭の一つが屠られて死んだ。そしてその (獣の) 死の打撃は癒された」。
これは、素直に読めば、解説ぬきでもすぐに理解可能な文である。 ローマ帝国の歴代の皇帝の一人が暗殺された。 この事件はそれなりに帝国全体に大きな打撃を与えたにちがいないが、しかしローマ帝国の支配力は強靱であって、皇帝の一人や二人暗殺されたとて、弱まることはない、と著者は指摘している。
ところが、こんな鮮明な文章もまた、聖書学者たちはまったく誤解 してしまった(翻訳そのものも)。原文では、暗殺されたのは一人の皇帝だが、獣自身(=ローマ帝国支配)はその打撃から癒された、とはっきり書いてあるのに、神学的聖書解釈者たちはこれを、「暗殺されたと思われた皇帝が再び生きて、ローマの町を襲ってくる」という意味に解してしまったのである。嘘みたいな誤読、まるで見当はずれな読み込み。
これについては、3節の註をすべて お読みいただきたし。 いずれも短い註だから、すぐにお読みになれるでしょう。
なお、 従来の神学者たちの訳書、解説書がこういうとんちんかんな理解に固執してきたのは、ここでは著者は「再生のネロ」なる伝説を信奉して書いているからだ、という俗説が何故か以前から神学者たちにはひどく人気があって、それを下敷きにして解説を書いているからである。
しかしこの俗説、まさにものを知らない俗説としか言いようがない。 しかし今でも支持者がけっこう多いから(佐竹明さんなぞ、こればかりあちこちの頁でふりまわしていらっしゃる)、仕方がないから、17,11 に付論 をつけて(651頁以下、「再生のネロの伝説」)、この伝説の由来や、こんな伝説を黙示録の著者が知っていた可能性は非常に小さいし、ましてやそんなものを自分で信奉してかつぐことなぞ到底ありえない、ということを、いろいろ資料をあげて詳しく論じておいた。
お暇な方はお読みいただきたし。 及びこの件については、13,3 のすべての註(490-495頁)。
5. 獣の数字は 666 (18節)
たいした問題ではないが、有名なのでふれておく。 18節のこの表現が ネロ帝を指す、ということは、知っている方が多いだろうけれども、そしてそれは、ヘブライ文字を数字に換算すればすぐにわかることだ、という点はよく指摘されているが、日本語の解説書では、どういう文字をどう数えればそうなるのか、までは説明していないものが多いから、興味のある方は、その節の註(552頁以下)をお読みいただきたし。
なお、ここにネロの名が登場することから、黙示録(ないしその原著)が書かれたのはネロ帝の治世の当時(60年代) であったはずだ、とする説が昔は流行ったけれども(今でも、ろくに知らずに聞きかじりの知識をふりまわす連中がこれを信奉しておいでである)、この説が無理なことは、同じ
18節の註の最後、また、黙示録原著がドミティアヌス帝の時代に(ないしその死からしばらく後)に書かれたものであることは、17章10節と 11節のいくつかの註を読まれたし。
しかし、この件に関してもっと重要なのは(どのみちたいして重要な問題ではないが)、これを、何だか 御大層な秘密の開示 であるかのように説明している解説書が多いから、要注意(日本語訳も、聖書協会訳ほか、多くがそうである)。 しかしもちろん、原文のどこにも、そんなことは書いてない。
文字を数字として数えるなぞ、当時としては当り前の話で、そんなことが御大層な秘密の知恵であるわけがないからだ。 この件については、16節はじめの四つの短い註。
6. 皇帝礼拝に対する抵抗?
「再生のネロ」 伝説よりはもう少し信用できそうに見えるのが(見えるだけで、実際にはとても信用に価しないが)、黙示録はローマ帝国が押しつけてきた皇帝礼拝に反対し、それに抵抗して、礼拝すべきは神とキリストだけだ、という信仰を貫こうとした、という説である。
本当はこちらも俗説 と呼ぶべきだろうが、神学的聖書解説者たちは(佐竹明も含む)、金科玉条のようにこの説を有難がってふりまわしておいでである。
彼らがこの俗説を有難がる理由は、もしもこういう説が通るのであれば、黙示録は決してローマ帝国の経済支配の問題なぞを扱った文書ではなく、有難いキリスト信仰を貫こうとした信仰の書である、と主張できるからである。
ここでも、原文を読む前から、信仰の前提をかつぎ出して、目の前にある文章をすべてその前提から説明しようと、ないしむしろ、その前提を黙示録の文章の中に読み込もうと、夢中になってておいでなのだ。
これについても、仕方がないから、やや長めの付論を書いておいた。 13,17 の末尾につけた付論 「皇帝礼拝という歴史的幽霊」(534-551頁)。
だいたい、もしもそういうことを主張したければ、ローマ帝国史の資料を 自分で検討して、果して後1世紀末のこの時代にローマ帝国の側がキリスト教徒を積極的に弾圧しようとして皇帝礼拝を押しつけ、それを受け入れない信者たちを弾圧した、ということが事実として存在したのかどうかをきっちり調べた上でないと言えないはずなのだが、彼ら神学的聖書解説者たちは、自分でその種のことを調べる甲斐性は皆無だから、ローマ帝国側の歴史資料を自分で調べることはまったくなさらずに、お互いにお互いの解説を写しあうだけで(これが一番悪い。それじゃ学問にならないじゃないか。 ただの孫引きごっこ)、いつの間にか、それが確乎とした歴史の事実であるかの如く信じ込んでしまっただけなのだ。
これまた、赤信号をみんなで声をそろえて渡っている図。
いや、それどころか、キリスト教側の資料 にも、1世紀末どころか、2世紀になってもまだまだ、そんな事実を示す証拠は何一つ存在しない! ましてや黙示録の原著者の文章には、そんなことはどこにもまったく、ほのめかされてもいないのだ! 原著者の文どころか、この場合は、編集者Sの文章にさえも、そんなことは露ほどもほのめかされてもいない。
しかし仕方がないから、興味のおありの方は、この付論をお読みいただきたし。
(5) 物語の頂点 ・ ローマの町と帝国経済の崩壊 (18章)
基本主題はそういうことであるが、著者の物語の頂点は、帝国支配の中心地たるローマの町と帝国経済全体の崩壊である。すなわち 第18章。
世界のすべての民族、すべての言語の者たち、すべての民を支配し、抑圧し、搾取し、圧迫しているあのローマ帝国とその中心地であるローマの町は、いつかかならず、滅亡せねばならぬ。 その先にはじめて、世の中のすべての人々が安心して生きることができる世界が到来する。 今までは神なき世界であったのだが、その後にはじめて、すべての人間が神と共に暮らせる世界になる……。
もちろんこれは、著者の夢 にすぎない。 だからこそ彼は、これを現実世界の物語としてではなく、幻想文学 に仕立てたのだ。
この後著者は 21-22章に、ローマ帝国崩壊後に実現する理想的な「新しい町」の情景を短く描いて、この書物を終りにしている。 つまり、物語全体の構造からしても、18章が黙示録の頂点 である。
他方、この構図と、編集者の描く絵 は、まるで噛み合わない。 編集者はすでに 8~9章でも、14章後半~16章でも、くどいほどくり返し、全世界、全宇宙の崩壊、それもただの崩壊でなく、徹底破壊を嬉しそうに描き続けてきた。 人間も、ごく一部のユダヤ人、ユダヤ主義者以外は、つまりすべての「異邦人」「異邦人に加担する者」は、つまり世界のほとんどすべての人間は、残酷に殺しつくされ、また殺しつくされ、またまた焼き殺され……。
つまり、編集者の構図に従えば、すでに16章までの段階で、この世界そのもの、この宇宙の全体が破壊しつくされ、世界中の人間が殺しつくされているのだから、今更、ローマの町が手つかずにまるごと残っていて(ローマの町だけでなく、地中海海運もまるごと、従って海運の対象になる地中海世界のあらゆる場所も)、これからはじめてローマの町と地中海海運が滅ぼされることになります、などという話になるわけがない。
つまり、この構図の違いからしても、編集者Sの黙示録の構想と、原著者のローマ帝国の支配する現実世界を見すえた構想とは、まるで噛み合わないことがわかる。
原著者は、世界全体が破壊しつくされる「終末」なんぞは、考えてもいなかった。それどころか彼は、ローマの町(都市)そのものについても、町全体が破壊され、火で焼くつくされる(9節)、そしてそこには「死と嘆きと飢饉」がある(8節)、と言ってはいるけれども、そこに住む人々の死そのものを具体的に描くことはしない。「死」に言及するのは、上の
8節の文字通りほんの一言だけである。
そして、ローマの町の繁栄を支えていた 地中海全域にわたる経済支配の立役者(15節、「これらのものの商人たち」) については、彼ら自身が痛めつけられるだの、殺されるだのということは、一切言われていない。 ただ、彼らの繁栄を支えていた地中海海運がすべて滅び去る、とのみ言われているだけである。
口を開けば、全世界の人々の残忍な皆殺しを叫び続けているサディスト編集者とは、雲泥の差、雲泥どころか、比べるのも無理なくらいに異なっている。
しかし著者は、その本題に入る前に、いくつか、それを 予告し、準備し、導入する 文を置いている。 11,18a が 予告。そして 13章全体 のローマ帝国批判が、これこそローマ帝国支配の実態なのだから、ローマの町とその帝国支配は滅ぼされねばならぬ、と言うための 準備 になっている。更に14,18 が 17~18章への 導入句 で、17章は現在のローマの町を支配している 皇帝たちの実態 の描写。 それだけの準備をしてから、著者はいよいよローマの町の滅亡という本題にとりかかる。
1. 予告(11,18a)
「そして諸民族は怒りました。そしてあなたの怒りも来たのです。そして時も。地を滅ぼしている者たちを滅ぼすべき時が」という文。ローマ帝国というのは「地を滅ぼす者たち」の集合体であって、彼らが滅ぼされる時がついに来たのだ、と。
ここは、原著者の文と編集者の挿入した語句を分離 しないと、その文が何を言っているのかわからない、という典型的な例。 編集者Sは原著者の文を正確に理解する能力にまったく欠けているから、文意を無視して好き勝手な挿入句を入れ込んだ結果、こういうことになってしまった。
しかし一見錯綜しているようでも、文の論理的、文法的構造や、意味の流れを正確につかめば(この場合は、少しギリシャ語の知識があれば、たいして難しいことではない)、容易に分離できるし、原著者の文意も極めて鮮明である。
これまでの聖書翻訳者、聖書学者はそのことに気がつかないから、この文の文法的流れが理解できず、その結果、原文を無視して、好き勝手な創作を「訳」と称してでっちあげる作業に走ってしまった。
この現象は、黙示録全体にわたって随所に見られることだが、この個所はその典型、かつそのことが容易にわかる個所であるので、私の解説は少し文がもたついておりますが(私の文章が下手くそなだけであって、事柄自体は事理明白)、是非ていねいにお読みいただきたし。
かつ、この個所は原著者の黙示録全体の基本趣旨を把握する上でも、最も重要な個所の一つ であるから、その意味でも、ぜひお読みください(註は444-450頁)。
2. 導入(14,8) 「倒れた、倒れた、大いなるバビロンが」
この一句が、本来の黙示録の頂点を指し示す。 ここまで長く序説を描き続けてきた著者が、いよいよ最後の宣言をなすのである。 この句は、編集者の文を抜けば、17~18章に直接つながっている。
つまり、これからローマの町の崩壊を描くよ、という宣言。
3. 物語の頂点、18章全体
18章全体が黙示録の物語の頂点である。 しかしこの章は、原著者が書いている部分は、意味鮮明であるから、細かい語句の意味が気になる方はその註をお読みいただくとして、それ以外は、最初に置いた 章全体についての解説(666-669頁)をお読みいただければ十分だろう。
ただし、11-14節 がいわば 頂点の頂点 であるから、ここは註も丁寧にお読みいただきたし。 これは、これまで、すべての聖書学者が露骨に無視してきた個所、無用の長物扱いして一顧の価値だに与えなかった個所である。
まさにその姿勢に、これまでの聖書学の本質が問われるというものだ(11~13節の長い註。 これは必読!)。一見、どうでもいいようなローマへの輸出品一覧表にすぎない。 しかしこういう表を書けたという点に、まさに、この著者がローマ帝国支配の実態を正確に観察していたことがわかる。
いや、これは、これまでの翻訳 も悪かった。 この種の一覧表は、個々の単語の個性的な特色がわかるように訳語も細かく精確に定めないと、表全体が持っている色彩が消えてなくなってしまう。 私の訳と 従来の日本語訳を読み比べて いただくだけでも(ないし、従来の日本語訳を引っ張り出して見るのもご面倒でしょうから、むしろやはり、私の註の各項目に従来の日本語訳の訳語の問題点が逐一指摘してありますから、そちらをお読み下さい)、違いは一目でおわかりいただけよう。 従来の日本語訳では、これはまさに無味乾燥な輸出品目一覧表にすぎない。 しかし、私訳をご覧になれば、細かい単語の意味を御存じなくても、これが、うんざりするほどの大金持の、けばけばしい贅沢趣味の一覧表だということは、すぐにおわかりいただけるだろう。
ビュッソス布(12節、この語の説明は 19,8の註)、テュイア材(12節、註691頁)、セミダル小麦粉(13節、註696頁)、レダ四輪車(13節、註697頁)。 このように片仮名で固有名詞的な名称として並べたら、それだけで、極度に贅沢なブランド品の匂いがおのずと漂ってくるではないか。 正確なところは、個々の註を読まれたし。
それ一個を買う金があれば、何千何万の人間、いやもっと大勢の人間たちが無事に生きていけるだろうほどの大金を、うさんくさい成金趣味のけばけばしい贅沢品を買うのに費やしている。
くだらない超高価なブランド品の一覧表。 そしてそれを購入するための大金を、彼らは全世界を抑圧することによって、しこたま懐にかき集めているのだ。
この一覧表に、著者のさまざまな思いがこめられている。 生々しい現実を前にした思いが。 まさに、全人類の富の大部分を人類の1%にも満たない少数の金持どもが独り占めして喜んでいる図。
一単語一単語に、著者の思いがこめられている。
しかし他方では、すべての人にとっての 生活必需品(穀物ほか)もいろいろあがっている。 彼らは、それを帝国支配全域から買い占めて、豊かに暮らしていた。そして彼らの買い占めによって、生産地の農民には食糧は十分には残らない。その結果、僅かな不作でも、直ちに食糧不足に結びつく。 等々。 やはりこの表の単語は、 ご面倒でも、一つ一つ註をすべてお読みいただきたし。 実感を得ていただくために。
そしてその表の最後をしめくくる「そして人間の生命を」という表現(13節末)。
次に、14節 は一見蛇足のように思えるけれども(現に従来の註解者はそう解してきた)、これがこの表の結びであるし、ここもまた個々の語の訳が従来の日本語訳ではまるでとんちんかんだから、正確なところを註で確かめられたし。
(6) 新しい理想の世界の実現 (20-22章)
21,2 では、天から理想の新しい町が下りて来る、という言い方をしているが、実際にはすでにその前から、「イエスの証しの故に斬殺された者たち」は天の神のもとで座を与えられているし(21,4)、7章で世界中の民の救済を予告的に描く場面でも、彼らは天の神の座のもとに招かれる、と言われている (7,9)。 それに 21,3 では、「新しい町では 神自身が人間たちと共に住む」、と言われているので、実際には著者は、もはや天と地の区別もなくなって、人間たちがみんな神と共に生きることができる、つまり神的な平和とやさしさの中で安心して生きていける、と言っているのである。
21,3 については、細かい言葉遣いもいろいろ特色のあるところだから、その節のいくつかの註もお読みいただきたし。
この場面全体の描写は、ほとんどは、本文を読めばすぐにわかる明晰な文なので(ただし、原著者の文が編集者によって寸断されてしまったから、それを拾い出して、つなげて読まないといけないが)、特に解説を必要としないけれども、これまた細かいところにもこの著者の特色が多く現れているので、少なくとも以下の註はお読みいただきたし。
1. 「聖なる都エルサレム」ではない!
この「新しい町」という語に「聖なるエルサレム」とつけ加えたのは、編集者である。 理屈からしても、原著者がこんなところでユダヤ民族主義を発揮して、世界中の民が集って来るのだから、それは聖なるエルサレムに決まっている、今やユダヤ人の首都が世界に冠たる首都になるのだ、などと言い立てるわけがないが、語の用法からしても、ここに
「聖なるエルサレム」 をつけ加えたのは編集者である。21,2 の註。
それに、全篇を通じて、この著者はエルサレム崇拝なんぞ、まったく臭わしてもいない。
2. その町に神殿は存在しない!(21,22)
そのことの証拠の一つが、この著者がきっぱりと、その町には神殿なんぞ存在しない、と宣言していることである。 ユダヤ民族主義者にとっては、聖都エルサレムは神殿あってこその有難い都なのである。
それに対し原著者の方は、まさに胸をはって、ここには神殿なんぞ存在しないよ、と言い切っているのだから、この人がここでエルサレムなんぞを考えているわけではないことは明白である。
これまた、その個所の註を読まれたし。
なお、この著者がそもそもエルサレムの町と神殿に対して痛烈な批判を持っていることについては、次の(7)の項目参照。
3. 旧約のせりふの批判的引用
この著者の文には時々見られるが、たとえばここの「その木の葉は諸民族の癒しとなる」という表現など(22,2)、典型的に、下敷ききにしている旧約の個所 を頭に置かないと、そして、その個所のヘブライ語の単語の原意を正確に知らないと、これがみごとにわさびの効いた旧約批判になっているということに気がつかない。
これはエゼキエル 47,12 をふまえた文だが、もちろん、そこに 「諸民族の」とつけ加えた点がごりごりのイスラエル主義者エゼキエルと正反対の方向を示す明瞭な宣言であるのだが、この文だけでは(ギリシャ語本文で読んでも)、そもそもこの文がエゼキエルの句をふまえたものだ、という事実がわかりにくい。
ヘブライ語の同じ単語を、従来の旧約の翻訳ではまったく違う意味に解して訳しているからだ。 エゼキエル書の翻訳としてはそれでもいいとしても、両者が同一の単語だということを知らないと、黙示録の著者の批判精神が伝わらない。
この種の個所は、ある意味では、註をお読みいただく醍醐味のあるところだから、語学に興味のない方も、ここは是非お読みいただきたし。
4. 「彼らは王である (王となる)」(著者の根本思想の一つ)
これはこの著者の根本思想の一つであり、非常に重要ですから、かつ、気がつかないと、このままでは何だかわからないので、ぜひ註をお読み下さい。
これも 22章の天的な新しい世界の描写の一つだが(5節)、そこでは、そこに集って来たすべての人がそれぞれ王になるのだ、と言っている。
この言い方がわかりにくい理由は (現にほとんどすべての訳書がこれを誤解して、原文とは関係のない奇妙な「訳」を勝手に持ち込んで、誤魔化している)、一つにはそもそも、その訳者さんたちは、「王となる、王である」という ギリシャ語の自動詞の意味 を御存じないから、それで間違ってしまうのだが、それだけでなく、この言い方そのものが 逆説的にひねった言い方 だから、そこに気がつかないと、まるでぴんとこないのだろう。
逆説的 というのは、ここは、「王である」ことがいいことだ、なんぞと言っているわけではなく、すべての人が王になってしまえば、他人によって支配されることがなくなる、誰もが自立、独立した尊厳ある存在になれる、と言ってる。
つまりそもそも他人を支配する王なんぞは世の中から消えてなくなる、ということだ。この表現はそのことを、逆説的にひねった言い方で言っている。すべての人が「王」になれば、他人を支配する王なんぞ存在しないことになる! 古代人がこういうことを言うことができた、というのは、非常に面白い、尊敬に価する発言だと思います。
詳しくは註をお読み下さい。
そしてこの言い方は、ここだけでなく、5,10 と 20,4 にも出て来る。 うち、5,10 の註が最も詳しいから、むしろそちらをお読み下さい。
つまりこれは、原著者の著作の 序曲(5章)と 終曲(全体の結び、20,4; 22,5)でくり返されているので、著者としてはこれを、自分の考えを表現する重要な言い方とみなしていたことがわかります。
4a. 編集者は王崇拝
ここも編集者は原著者と正反対で、古代人には(今でも)よく見られる現象だが、王という他の人間を支配する強大な権力者を、有難く尊ぶべきものとして崇拝し、その理念を神にまで押しつけている(神は王である)。もっともこれは、すでに旧約に非常に多く見られる伝統的理念であり、旧約全体を支配している理念であるのだから、この編集者がその真似をしても特にどうということもないのだが、それに対しここも、ユダヤ人全体に深く根づいてしまったこの理念を、正面きってとらえ返し、ひっく返そうとした黙示録の著者が非常にすぐれていた、ということだ。
編集者が「神は王である」という理念が大好きなことについては、たとえば 11,15。 その二つの註、「この世の王国は我らの主と……」(430頁)、及び 「彼は永遠から永遠へと……」(431頁) を読まれたし。
そして特に、これは 現実社会の支配の言語が宗教言語に取りこまれる とどうなるか、という言語的に非常に重要な現象の実例ですから、それについて論じた 付論 「神は王? 政治の言語と宗教の言語」(433-441頁)をぜひ読まれたし。
5. 全体の結びの句 (22,17)
「来たれ。そして聞く者は言え、来たれ、と。そして渇く者は来たれ」という句。これが原著者の黙示録の最後の句である。以上でおわかりのこの著者の基本姿勢を考えていただければ、いかにも印象的な締めの句である。この世で、ローマ帝国支配下のこの世界で、あらゆる問題に満ちているこの世で、日々の食糧や飲み水を手に入れるのも大変なこの世界で、苦労して生きてきた人たち(飢える者、渇く者)に天の声がこう言って呼びかけているのだよ、と記して著者はこの書を結んでいる。
もちろん、残念ながら、これはこの著者の願望にすぎない。 この世の現実そのものを根本的に変革する見通しを持つことはできない以上、著者としてはせめて、幻想文学の結びの言葉として、こう書いて終る以外になかったのだ。
しかしこの表現にも、この人の心のこもったやさしさがよく表現されている。 いかにもこの著者らしい結びの句である。 ところがこれを、ごく一部を除いて、近現代の聖書学者はおそろしく違った意味に変えて「解釈」してしまった。
特に日本語諸訳 は、解釈どころか、翻訳そのものが露骨に、まさに 甘ったるい宗教好みのせりふ に変えられてしまっている。「来たりませ。また聞く者も、来たりませ、と言いなさい。渇いている者はここに来るがよい」(口語訳。他の諸訳もほとんど同じ)。最初の二つの「来たれ」を、天にいるキリストへの呼びかけと解し、キリストが終末の審判(と信者のみの救済)のために天から下りて来てくれますように、と呼びかけている、と解してしまったのだ。それで彼らはこれを、「(主よ)、来たり給え」と訳したのである。原文は三つとも同じ「来たれ」なのに(二人称命令と三人称命令の違いはあるが、ここはどちらにせよ同じこと)、いくらなんでも、それは読み込みすぎでしょう! かくして彼らは、原著者のせっかくの心やさしい、しかし悲痛な叫び声を消去してしまったのだ。
この文をそのようにキリスト再臨の待望と解するのがとても無理であることについては、22,17の註をすべてお読みいただきたし(844-853頁)。だいたい、まったく同じ動詞の同じ命令形をこのように訳し分けること自体が無理であるが、更にそれでは、三番目の「渇いている者来たれ」だけ話がつながらなくなってしまう。
5a. キリスト再臨の待望、編集者のドグマ
しかし、近現代のほとんどの聖書学者がこのように誤解したのも、言い訳はあろう。 このすぐ後に続く 22,20 が編集者自身の結びの言葉だが、そちらでは、キリスト再臨の待望で話が終っている。 それで彼らは、17節も 20節と同じことを言っている、と勘違いしてしまったのであろう。 しかしこれが編集者Sのお好みのドグマであることは、あまりに鮮明。 そちらの註。そっちとこっちをこんがらがってはいけない。
(7) エルサレム批判 (11章)
著者は最も重要な本題(ローマ帝国批判)に入る前に、それとは別に片づけておかねばならない問題を一つ、やや大きく扱っている。 エルサレム批判である。「それとは別に」と言っても、ローマの町による全世界の帝国支配という現象と、エルサレムの町がユダヤ人社会や周辺の諸民族に対して果してきた役割は、本質的に同質のものである、と著者は言っている。
だからこそ、本題のローマ帝国批判に入る前に、まずエルサレムの町の問題にけりをつけておこう、と思ったのである。
ここも、ところどころ編集者が余計な挿入をやらかしているから、いささかわかり難くなってはいるが、それでも、素直に読めば、文意鮮明である。 著者は、エルサレムというのはそもそも イエスを殺した町 であり(8節)、ソドムやエジプト のように「よそ者」に対してひどい仕打ちをなしている町だ(8節)、と言っている(8節の註はいささかややこしいですが、正確に理解していただく必要があるので、我慢してお読み下さい)。そういう町なのだから、エルサレムの町には罰が与えられねばならぬ、と(13節)。
そもそもこの章の冒頭で著者は、エルサレムの町の「神殿と祭壇とそこで拝礼している者たちの 実態を測定せよ」とはっきり宣言している(1節)。神殿こそエルサレムの町の中心機能である。それは、すべてのユダヤ人(ユダヤのユダヤ人だけでなく、全世界に散在するユダヤ人もすべて)を支配し、統制し、搾取する機能の中核なのだ。
ちょうどローマの町がローマ帝国の世界支配を司る中心機能を果たしているのと同じこと。エルサレムの貴族、支配層の連中が世界中のユダヤ人住民を支配、搾取する中心にいるのだが、彼らの「権威、権力」の象徴が神殿である。
しかしそれだけでなく、神殿はユダヤ民族絶対主義の象徴的中核であるから、ここを中心にして、「異邦人」排除のイデオロギーが醸成される。
この神殿の本当の実態は何なのだ、その内境内(神殿を礼拝する者たちが入る場所。 ユダヤ人しか立ち入りを許されない)に集って、神殿の前でひれ伏して有難そうに拝礼している者たちの実態は何なのだ。 彼らの実態をしっかりと 「測定」 してみろよ!
古代人の文章でこんな明晰、明白なものはめったにない、と思われるくらいに明晰な文なのに、これまた 従来の聖書学者たち はとんでもない誤解をくり返し、意味を正反対に解説しつづけておいでである。 どうしてそうなったのか。
古代末期以後のキリスト教、つまりすでに 旧約聖書を自分たちの正典 としてかつぐようになって以降のキリスト教にとっては、エルサレムとその神殿はユダヤ教の象徴的中心であるよりも、自分たちキリスト教にとっての有難い崇拝の対象となってしまっていた。エルサレム神殿はすでに消滅していたが、かえってそのせいで、キリスト信者はそれを自分たちの聖所とみなしやすくなったのだろう。
これは、最初の時期に、そもそもイエス自身が、そしてそれを継承しようとした最初期の一部のキリスト信者(エルサレム教会のいわゆる「ヘレニスト」たち)、更にそれを継承しようとした新約時代のすぐれた人たちが(マルコ、ヘブライ書の著者、等々)、はっきりと主張していたエルサレム神殿批判、ユダヤ教民族主義の偏狭な精神の批判を、まるごと放棄し、キリスト教を機械的にユダヤ教に接ぎ木しようとした、キリスト教史上の大きな問題の一つなのだが、それについてはいずれまたゆっくり検討することにして、ともかく、以後のキリスト教信者にとっては、エルサレムとは、自分たちキリスト教徒にとっても有難い、聖なる都、その神殿は絶対的な聖所、ということになってしまったのだ。
近現代の神学者もその精神をまったく無批判に継承しているから、彼らとしては、新約の文書の中にエルサレムやその神殿が出て来ると、何も考える前からすでに、この文は、有難いエルサレム神殿を有難く崇拝している有難い文章なのです、という前提からしか読もうとしないのだ。
嘘みたいな見当ちがい、嘘みたいな思い込み……。 何とも申し上げようもないのだが、これがキリスト教神学というものの実態である。
彼らはこの文を、神はどんなことがあってもエルサレム神殿の聖所だけは絶対に保護して下さる、という意味の文だ、と主張なさる。 まさかね、それじゃ原文の文意とまるで正反対じゃないか。 おまけに、せめてそこでやめておけばいいのに(それだけでも嘘みたいな誤読なのだから、そこで思考停止されたら困るけれども)、それを無条件にキリスト教信仰ドグマに転化し(この文にはキリスト教のキの字も出て来ないのに!)、この文は、「正しいキリスト教会を神様は何があっても絶対に保護して下さる」という意味です、と「解釈」なさる。
こんな解説にお目にかかったら、もはや溜息しか出て来ない。 いや、馬鹿らしすぎて、溜息さえも出ない。著者の原文とまったく何の関係もないではないか。
以上につき、語の意味を正確に知るために、そして彼らの解説がどれほど滅茶苦茶かを肝に銘じてお知りいただくために、11,1 の「神の神殿」の註と「測る」の註は是非お読みいただきたし。 特に 「測る」 の註は重要。 そして、やや面倒だが、393-406頁の 付論「熱心派の籠城?」も。
(8) 編集者のギリシャ語 (どこがどう下手か)
以下、ギリシャ語その他の語学的問題に入ります。
「どこがどう下手か」と言っても、私の感じでは、下手などという水準ではなく、手がつけられないほどすさまじい、と言いたくなるような代物なのですが、全部あげるわけにもいかないので(本書の、編集者の文に関する註の非常に多くの部分は、この人のギリシャ語の下手さ加減について扱っています)、語学のお嫌いな方も、以下のうちいくつかを選んでお読み下さい。
このことを頭に入れていただかないと、そもそも、黙示録の中で原著者と編集者Sを仕分けする重要な手掛りの一つを知らずにすむことになりますから。
1. 格の間違い
ヨーロッパ語には、一部の言語を別として、名詞及び名詞的な語(形容詞、冠詞、代名詞、分詞、など)には必ず格変化がある。 格変化というのは、日本語なら名詞等には「てにをは」をつけて、その語が文中で他の単語とどのようにつながるかを示すことができるのだが、西洋語の場合は、名詞そのものの語尾を活用することによって、日本語の「てにをは」に対応することを示す。 古代ギリシャ語 の場合は、格は四つしかなく、主格(その語が主語であることを示す、ほか)、属格(分離の意味「~から」、所属、所有の意味「(誰それ)の」、ほか)、与格(位置=どこそこで、相手=誰それに、等々さまざまなことを示す)、対格(方向の意味「~へと」、動詞の直接目的語であることを示す、等々)。
前置詞を用いる時には、その前置詞ごとに 支配する格 が決まっている場合もあるが (ek=「から」は分離の前置詞だから、属格の名詞がつく。 en=「中に」は位置を示す前置詞だから、与格の名詞がつく。 等々)、同じ前置詞が いくつもの格を支配 する場合もある。 epi(~の上)は属格を支配する場合も、与格の場合も、対格の場合もある。 これについては(個々の意味の違い、実際の用法、等々)、詳しくは 4,2 の 「座に座す者」 の註 のはじめの部分(172頁)をご覧ください。
しかし、こうなると、ギリシャ語が第一言語でない者にとっては、いささか面倒で、間違いやすい。 その点は黙示録の原著者も編集者も同じだが、原著者 の場合は、さすがにこのあたりのことになると、いささかたどたどしくなりますね、という程度の水準である(これはもちろん黙示録の書き手だけに見られる現象ではなく、ヘレニズム的通俗のギリシャ語全体に見られる。
新約のギリシャ語では最もしっかりしたギリシャ語を書く上から三番目か四番目ぐらいに位置する ルカでさえも、こういう点になると、時にたどたどしい。 ルカについては、「註」の 174頁から175頁にかけて の「佐竹……」にはじまる段落)。
けれども、編集者Sになると、格の間違いは、たどたどしいなどという水準ではなく、滅茶苦茶 としか言いようのない水準になる。 これはもう、いちいち例をあげていると大変だから、註を全部通読していただけば、あちこちに大量に見つかりますから、これをうんざりするところまでお読みになったら、なるほど、編集者Sのギリシャ語はすさまじい、と体感して下さい。
しかし、多くの読者はそこまでの時間をお持ちでないだろうから、最も単純な例 (単純であるだけに、まさかこんなことを間違える奴が存在するなぞ信じ難い、という程度の水準。
そんな奴がギリシャ語で文書を書いて公表しようってんだから!) だけを御紹介します。
ギリシャ語の素人でも楽に使うことのできる最も容易な格の用法は、名詞(名詞的表現)を列挙する場合である。 いわゆる 同格の説明語 で、その人(ないし物)を別の単語で言い換えて説明する。1章5節 の「イエス・キリスト、(すなわち)証人、信実な者、死人たちの最初に生れた者、地の王たちの支配者から」。日本語だと「から」は最後に置くが、西洋語だと前置詞だから、全体の前に置く。つまりこの「から」は、ここに列挙されたすべての名詞にかかる。 そして「から」であるから、属格支配 である。 従って、「イエス・キリスト」「証人」「信実な者」「……生れた者」「支配者」は 全部そろって属格 に置かないといけない。 だから「同格」と呼ぶ。こんなのは、格の用法でも最も易しいものであるから、普通は、間違える人はいない。 それなのに、この編集者は、何と、最初の「イエス・キリスト」だけ属格に置いて、残りの四つは主格 にしてしまった。 ギリシャ語の間違いにしても、あまりに幼稚すぎる。
1,5 の註 は、このことをごく簡略に書いただけだから(上記の方が詳しい)、わざわざお読みになる必要もないが、それに加えて、1,4 の「(今)いまし、(かつて)いまし、(いずれ)来る方から」の註 (57頁)もお読みいただきたし。同じ間違いだが、1章のはじめから、いきなり、「神」 について述べるにも、「キリスト」について述べるにも、こんな単純な文法的な間違いを続けて犯すのだから、先が思いやられる、とお思いになるだろう。
聖書学者たちは、これは聖なる神やキリストについて述べているのだから、わざとこういう書き方をしたのだ、などと説明なさるのだが(まさかね、聖なる神様だから文法を間違えますかね)、この人たち、編集者Sの文には同じ間違いが他にも大量に見出される、という事実も知らないのかしらん。たとえば
9,14 の 「第六の天使……」の註。 ほかにもあちこち、全篇を通じて、いっぱいあります。
2. 時制の間違い
上記が名詞に関する最も初歩的な間違いだとすれば、動詞に関する最も初歩的な間違い は、時制の間違いである。 この編集者は特に、未完了過去(過去の時点における動作の継続)と アオリスト(普通は単純過去、つまり過去にそういう事実があった、という、動作の継続、非継続に関係なしに、単に過去の事実を指摘する)の区別がつかず、非常にしばしば混乱しておいでである。 それ以外にも、いろいろ時制の間違いがとても多い。
これは、一応同情に価する間違いではある。 そもそも 古代セム語諸語(ヘブライ語、アラム語等々)には、厳密な意味での「時制」という理念が存在しない からだ(現在、過去、未来の「時」の区別がない! 単に「完了」と「未完了」の二つの形があるだけ)。変な言語だとお思いになるかもしれないが、その点は日本語だって同じこと。
日本の学校では、文法らしい文法は英語しか教えず(近頃はその点まで怪しくなってきたが)、日本語文法を正確、かつ十分に教えることはしていない(特に、日本語文法が世界の他の言語と比べて、どのように違い、どのような特色があるか、ということ)。
だから、日本語の動詞にはそもそも「時制」というものが存在しない、という事実さえ、御存じない方が非常に多い(日本語では、現在、過去、未来の「時」の区別は、必要に応じて、助詞、副詞その他の「時」を表示する語を補うことによって表現している。
動詞自体の活用に「時」を表現する機能は存在しない。 だから、日本の学校の生徒が、英語であれ、他の言語であれ、「時制」の存在する言語を教わっても、それがなかなか身につかないのである。
それと同じことで、古代セム語を母語とする人たちがギリシャ語をお書きになると、時制を間違えることが多い。
けれども、同情に価するとはいえ、日常生活で英語を話す機会など皆無に近い日本のほとんどすべての中学生と、ヘレニズム都市に住んで、日々多くギリシャ語を耳にし、自分でも何ほどかギリシャ語を話して生きている人たちを一緒にするわけにはいくまい。
ユダヤ人とて、ヘレニズム都市で生活している以上、ギリシャ語を耳にする機会は、日本の中学生の英語と比べて、桁違いに多かったはずである。 従って、未完了過去とアオリストの区別、などというまったくの初歩について、たまに一度間違えました、などという水準ではなく、頻繁に間違えだらけ、というのでは、言い訳はきかない。
これまた、黙示録の編集者の文にはあまりに多く出て来るので、とても全部を列挙しきれるものではないから、御免蒙るが、わかり易い例を二、三あげると、5,7 の「受け取った」という動詞(註、211頁)。また 19,3 の「言った」の註(726頁)。他の動詞についても、この編集者はこの間違いが多いが、この二つの動詞については特に多い。 どうやら、この二つの動詞については、過去的時制についてはアオリスト形を覚えず、未完了過去形しか覚えなかったので、未完了過去を使うことしか知らなかった、という図。
その他、この人には時制の間違いが非常に多い。
3. 前置詞の間違い
古代セム語とギリシャ語では、当然ながら、前置詞の考え方がまるで違う。その結果、この編集者の書くギリシャ語は、前置詞の用い方がすさまじい。 これまた、他言語で書くのならば、そちらの言語の文法、語法に従って書かねばならないのに、この書き手は、そういう姿勢が非常に希薄である。 ギリシャ語を書くのに、ヘブライ語やアラム語の語順、文法、語法等々の発想に従ってギリシャ語の単語を並べるだけである。他言語を他言語として認識し尊重することのできない奴(つまり、その言語独得の構造、文法、語法等々を、自分の言語とは違うんだ、という自覚を持って学ぼうとしない奴)には、極端な自民族優先主義者が多い。
それにしてもね。 ほんの一例。 21,13 「東から三つの城門、北から三つの城門……」 の註。 これはまったくの直訳であるが、このように律儀に直訳したらまるで意味が通じない。 ここで「から」という前置詞を用いられたって、何が何だかわからない。たとえば「東には三つの城門、北にも三つの城門……」とでも書かねばいけなかったのだ。
お前、ギリシャ語で文を書きたかったら、一番初歩の前置詞ぐらい覚えてからにしろよ、と言いたくなる。 詳しくはそこの註を読まれたし。
こういう例に出くわしても、聖なる聖書に文法の間違いなぞありません、とて、これはこれで正しい用法なのです、なんぞと説明する聖書学者が何人もいらっしゃる。
ふう。 聖書解説って、何なのだ?
その他、前置詞の間違いもあちこち非常に多い。
4. 単語の語義の間違い
狭義の文法の間違いではなく、単語の語義を正確に知らない例。これは判別しにくい場合が多いから(その文そのものがしどろもどろで意味をなさないから、個々の単語についても、当人がどういうつもりでその語を用いているのかもはっきりわからない)、単語の語義の問題なのか、文章の構成力の問題なのかも、わからないが、鮮明な語義の間違いもところどころ見かける。
嘘みたいにわかり易い例、5,5 の「ダヴィデの根」(註は 196頁以下)。もしかするとここはこの人は「ダヴィデの子孫」と言いたかったのかもしれない。しかし、「根」という語を「子孫」の意味に用いるのは、語義からして、絶対不可能。「ダヴィデの根」と言ったら、ダヴィデがそこから生じた根、つまりダヴィデの親か先祖しか指さない。 詳しくはそちらの註を読まれたし。
いや、おそらく、この人とてギリシャ語の「根」という単語(rhiza)の意味さえ知らなかった、というわけではないだろう。 多分、「根」という語を比喩的に用いるとどうなるか、という語法を知らなかった、というだけのことかもしれないが(この場合に限らず、この人、単語を比喩的な意味に用いる時 には、しばしばとんちんかんな文を書いてしまう)、それにしても、根は根ですよ。
そしてやはりこの註を是非読んでおいていただきたいのは、ここもまた聖書学者たち がすさまじい護教論に走り、何と、新約のギリシャ語では「根」という単語には「若枝」という意味があるのです、と宣言なさるにいたった。 まさかね、そりゃないでしょう。 護教論もここまで来るとひどすぎる。 やはり是非ともこの註はお読みいただきたし。
これも、あまりにひどい例を一つあげただけで、ここまでひどいわけではなくとも、どうも語の用い方がひどく下手くそね、という程度のものなら、あちこち大量に出て来る。
5. そもそも文章の構成力がない!
以上の他にも、編集者の文にはギリシャ語の間違いが大量に出て来るが、私見では、これはどうも単にギリシャ語の語学力だけの問題ではない。 この人、ギリシャ語であろうと何語であろうと、そもそも文章をまともに構成する能力にいちじるしく欠如しているのではないかと思われる。
その典型的な例。これまた数あるうちの一つだが、13,10 「もしも誰かが捕囚へと、(その者は)捕囚へと行く。……」。これで直訳だが、これじゃもはやそもそも「文」とは言えない。 この人はそもそもまっとうな文章を書く能力がない、と言わざるをえまい。そちらの註。
あと一つだけ、22,11 は、それ自体としても意味をなさない文だが、これを 同 8-10節 の続きとして読んでごらんになるがいい。 これで意味の通る文だと思う方が間違っている。 どうしてそういうことになったか。 詳しくはそちらの註(836頁以下)。
以上の5項目だけでなく、他にも大量にいろいろあります。 しかし、大多数の読者の方々は、そこまでつきあわさせられることもないでしょうか。 以上の例をご覧になって、あとは類推されたし。
(9) 原著者のギリシャ語の間違い
多少新約のギリシャ語をお読みになった方であれば、それなら黙示録原著者の文にだってギリシャ語の間違いがあるだろう、とおっしゃるでしょうか。
確かに、拾っていけば、いくつもある。
前置詞の用い方 がやや下手な点。 eis「の中へと」の使い方。13,13 の「日が天から地へと落ちる」、6,13 「地に落ちた」のそれぞれの註。
あるいは、「の上に座る」という言い方の場合に、「上」(epi)という前置詞の後に置く名詞の格が一定しない(4,2 「その座に座す者」 の註、171頁以下)。等々。
不定詞の用法 が雑。 例、12,7「そして天では戦いがあった。ミカエルと……」 の註(469頁)、など。
動詞の時制 が雑。 例、12,2 「叫んでいる」 の註。アオリストないし未完了過去で書かないといけないところを、現在形にしてしまった。
等々。
しかしまず、編集者Sと比べると、全体としてはるかに少ないし(それだけで両者の違いは決定的である)、どの点についても、当時のヘレニズム的通俗語ではよく見られる現象なので、この著者に限ったことではない。
すなわち、eis を他の前置詞と混同する例は他にもよく見られるし、不定詞の用法が雑なのはこの時代の通俗語では非常に多く見られるし、動詞の時制の間違いも同じ。上の例のような現在形の用い方は
マルコにも 多く見られる現象。
特に、不定詞の用法 については、編集者Sのすさまじい誤用の連発と比べれば、原著者のこの程度の雑な用法は、取り立てて言うほどのことでもない。
それに対し、編集者Sの不定詞の用法のすさまじさ については、たとえば 1,1の「その僕たちに示すべく」(54頁)、11,6 の「水を血に変える水に対する権限……」の註、13,6 の二つ目の註の「冒瀆した」、等々大量。
多少は間違いないし下手な用法が見られるというのと、全篇を通じて嘘みたいに間違いだらけというのとでは、水準がまるで異なる。
(10) もう少しだけ語学の問題 (それぞれが用いない単語)
以上のようにして原著者と編集者の文を仕分けしてみると、その結果として、語学的ないし言語的特徴として、面白い事実に気がつきます。人は誰しも、自分が用いる単語の語彙に片寄り があります。 言われれば知っている単語でも、自分で使うことはしない、という。 それも多くの場合は、無意識 でしょう。無意識であるだけに、こういう特徴は、それぞれの文の書き手の違いを知る手掛りになる。
1. 患難 (thlipsis)
「患難」などと訳すからいけないので(「苦難」「苦労」「困難」等々いろいろ訳し様があろう。「患難」と訳すのが日本語訳聖書の伝統だが)、「押し潰す、(そういう仕方で)苦しめる」
というよく用いられる動詞(thlibō)を名詞にしただけだから、名詞の方もよく用いられるのだが(ただし古典ギリシャ語では、名詞の方は非常に多いというわけではない。アリストテレス、エピクロスなどに用例はあるけれども。 ヘレニズム的通俗語ではけっこう多く出て来る)、従って、新約のほとんどの著者がそれぞれ何回かは用いている名詞なのだが、面白いことに、原著者はこの語は用いない。編集者のみ5回。7,4 の註(324頁)。
2. 上衣 (stolē)
これも「上衣」などと変な訳語ですみません。よそ行きのやや上等の衣。私は「正装」などと訳したこともある。それに対し himation という語はあらゆる種類の「衣服」を指す語。着るものなら、何でも himation である。 原著者はこの二つの語を正確に使い分けているが、編集者Sは himation しか用いない。上等の衣を指す場合も himation である(1個所だけ、22,14 で stolē を用いているが、これは原著者がこの語を用いているのを思い出して、真似しただけだろう。詳しくは 3,4 の「白い衣服」の註(145頁末以下)。 多分、この編集者が自分で使える語彙には stolē という語が存在していなかった、というだけのことだろうけれども。
その他探せば他にも見つかるだろう(私の「註」でも他にも書いたはずだが、ど忘れしてしまって、いま思い出せません。すみません)。
しかしこういった本当に無意識な語彙の偏り以外に、この書き手のものの考え方の質からして、こういう語は使わないだろうなあ、というのもある。
3. キリストとイスラエル
まあ 原著者がこの二つの語を用いることない だろうなあ、と思って、一応原稿が仕上がった後で調べてみたら、やっぱり用いていなかった。「キリスト」については、20,4 の 「キリストと共に千年間」の註(772頁)参照。
「イスラエル」については、実は「註」にも書いてありません。今回こここに書くにあたって調べてみたら、やっぱり原著者はこの語も用いていなかった! まあ、当然そうだろう。それに対し、編集者Sは3回。それもこの人にとって要の個所で用いている(2,14; 7,4; 21,12)。 同じく「ユダヤ人」という語も、原著者は一度も用いていない。編集者Sは2度(2,9と 3,9。 このどちらも編集者Sにとっては重要な個所)。それと比べれば、黙示録の原著者がいかに徹底してユダヤ人意識、イスラエル民族意識を払拭しているかがわかる。
それも、無意識の言葉の用い方の水準に到達するほどに。
(11) 既存の訳では気がつかない問題点
以上の原著者と編集者Sの違いについても、またそれとは無関係の個々の細かい文意についても、既存の聖書訳に頼っていると(日本語訳だけでなく、西洋語諸訳も。特に英語訳はいろいろあるが、仏訳独訳もけっこう問題がある)、多くの問題点を見過ごし、
また原文の意味をまるで取り違えることになる。 他方、日本語訳聖書独得の問題も非常に多い。
1. 旧約の訳
黙示録の文(黙示録に限らず、新約のいずれかの文書)が旧約の文を引用ないし下敷きにして書いている場合、もちろん、その旧約の文そのものを正確に理解しないと、新約のその文の書き手の意図も見誤ることになる。この場合、解説書などで、新約のこの文は旧約のあの文をふまえて書いております、とか書いてあっても(だから新約のこの文は有難い旧約聖書の文と同じことを言っているのです、とか。他人の文章をふまえて書くことがあるとしても、それと同じことを言っているとは限るまいに。
それだけでもすでに、もうちょっとものを考えて解説してください、と言いたくなるが、それはもう一つ別の水準の問題)、その旧約の文そのものを 日本語訳旧約聖書が誤訳していれば、読者がその個所をご覧になっても、何が何だかわかるまい。
しかしもっと悲劇的なのは、旧約のその文のヘブライ語を日本語訳が(ないし西洋語諸訳も)露骨に誤訳しているのに、新約の解説者がそのことに気がつくことなく、新約のこの文は、その誤訳的旧約の文と同じことを言っています、なんぞと解説することが、非常に多いとは言わないが、けっこう時々見られるのである。いや、これはもう、悲劇というよりは、喜劇と言うべきだが。
まず申し上げておくべきことは、新約学者たる者、この文は旧約のどの個所をふまえております、などと断言したかったら、その前にまず、最小限、旧約のその個所の ヘブライ語(ないしダニエル書ならアラム語)の本文、及び七十人訳のギリシャ語訳を自分でちゃんと読んで検討 なさらないといけない。 新約の著者たちは、旧約の諸文書をヘブライ語(アラム語)ないし七十人訳で読んでいたのだから! 彼らが現代日本語訳聖書を読むわけがないだろ!
ところが、その作業の手を抜いて、日本語訳(ないし英語訳など)の旧約聖書を見るだけで、話をすませてしまっている新約学者がほとんどである。そんなの、学者と言えるか。あてにならない他人の翻訳などに頼らないで、自分で原文に当たれ!
鮮明な実例。 11,4 の「二本のオリーヴの木」について、これは旧約の ゼカリヤ書 4,14 の文をふまえて言っています、そしてゼカリヤ書ではこれは「(オリーヴの)油を注がれた者」、つまりメシアを指しているのだから、黙示録の「オリーヴの木」もメシア的存在(=王)を意味しているのです、などと解説する例。
ゼカリヤ書のこの個所を「油注がれた者(=メシア)」と 誤訳したのはルター で、以後の大多数の旧約の訳がこれをそのまま真似してしまったのだが、ゼカリヤ書原文には (ヘブライ語でも七十人訳でも)、そんなことは書いてない のだ! それなのに、現代の黙示録解説学者の皆さんは、旧約は現代語訳しか読まないから、黙示録のこの個所の「オリーヴの木」は 「メシア的存在」を指す比喩なのです、と何も調べないで書きつのっておいでになる。
この註 (410頁の 「二つの燭台」 の註)、面白いから、ぜひお読み下さい!
この現象、けっこう時々見かけられる現象なのだが、大多数の読者の場合、ヘブライ語本文と七十人訳を自分で読み比べる、というような作業はお出来にならないから
、どうにも仕方がないではないか、とおっしゃるだろうと思うけれども (しかしねえ、それは読者の責任ではなく、まさに、読者の方々にそういう情報を提供するのが新約学の専門家の責任なのだ!
お前ら、さぼるな)、せめて、私の細かい註を丁寧にお読み下さいますように。
2. 万軍の主 (11,17)
それと関連する問題だが、こちらは 重要。この表現を正確に「万軍の主」と訳せるかどうかで、黙示録という文書が大幅に異なって見えてくる。 この言い方(神を呼ぶ呼称)は編集者Sの非常にお好みの言い方で、黙示録では編集者Sの文にしか出て来ない(全9回)。従って、その事実からしても、また意味的にも(いかにも戦争好き)、この表現は編集者Sの特色をとらえるのに非常に重要な表現なのだが、これは、こうとしか訳せない表現である。
ところがそれを、従来の聖書翻訳者はそろって 全能の主 と訳してきた。 それじゃ、まったく意味が違うではないか。
その点について、詳しくは 11,17のはじめの註(441頁)を読まれたし。 この種の語学的な問題については、なるべくきっちりと押さえてくださいますように。
3. 日本聖書協会訳等の問題
これはもう、これまでの巻でも、読者は嫌というほどお目にかかってこられたはずだが、内容的にはどうでもいい程度の文でも、聖書協会等の訳にはいろいろあっと驚くようなひどい訳にお目にかかることができる。
お笑いは、11,1 の「棒のような葦」の訳。「葦」などという単純な単語の訳をお間違えになるのだから!
もう少し内容的に意味がある個所は 3,9 の「サタンの集会から、……嘘をついている者たち(から)、与える」。これは編集者のギリシャ語そのものがひどく下手くそなので、正確な訳なぞ望みようもないところだから、私の訳が絶対に正しいとは言わないが、口語訳新共同訳等の、まさかね、と言わざるをえない屁理屈だけは通用すまい。 詳しくはそちらの註(152頁以下)。
こんなところは、意味的にはたいした問題ではないので、ほっておいてもいいようなものだが、この種の小さな間違いが蓄積すると(何せ大量にある)、その分量の故に、その文書(この場合は黙示録)の全体が何となくぼやけて、違って見えてきてしまうから、やはり、この種の註も、少なくとも二つ三つはお読みいただきたし。
あと一つだけ。 これもそれほどたいした個所ではないけれども、口語訳新共同訳等は正反対な「訳」をつけてしまい(これもRSVの英文和訳)、佐竹明さん はおとなしくその訳に従った結果(学者なんだから、自分でそういう訳が可能かどうか、しっかり検討すればいいのに)、まるで見当はずれの解説をおつけになっているので(585頁)、わかり易い実例だし、語学的には面白いところだから、こちらの註もお読みいただきたし。14,15 の 「地の収穫(物) は枯れた」 の註(593頁以下)。彼らはこれを「地の収穫物は実った」とお訳しになった。「枯れた」が「実った」に化けたんだから、何をか言わんやだが、こういう訳をつけて、それにそって「解説」をお書きになるのだから、何とも。
3a. 「彼女が焼かれる火の煙」 (18,9)
以上と同種の問題だが、こちらは、ヨーロッパ語文法の根本的な理解(しかし最も初歩の中の初歩)にかかわることだから、 この際、この註は是非お読みになって下さいますように。
つまり、こう訳したのでは (口語訳等)、おどろおどろしい魔女 かなにかが、中世の異端排除よろしく、火あぶりになって焼き殺される情景を想像してしまう。 しかしこれは原文は「(ローマの)町を焼く火の煙」であって、それ以外の訳の可能性はない。
実はこれは、日本語以外の言語は 英語しか知らない、という連中(口語訳等の訳者さんたちもその典型)、日本語以外の言語は何でも英語、英文法の知識だけを基準にして「理解」なさろうとするところから生じる語学的な珍風景。しかし、珍風景には違いないが、文化の質としては大問題である。英語以外のほぼすべてのヨーロッパ語は、名詞には文法的な「性」(男性、女性、中性)の区別があるんですよ。それを、その区別がほとんど消滅してしまった 英文法だけを頼りに、古代ギリシャ語を訳そうというのだから、無茶苦茶。
その意味で、ここの註は他言語を理解するとはどういうことかをお知りになるために、典型的にわかり易い事例だから、是非お読みいただきたし(18,3 の「この町」の註、670-673頁)。それぞれの言語はそれぞれの言語 であって(その言語独得の個性を持っている)、それをすべて英文法だけでもって「理解」しようなんぞ、アメリカ絶対崇拝もいい加減にしろ、としか言い様がない。
(12) 新約学の基本文献の用い方 (バウアーとネストレ)
この二つは(辞書とテクスト)、新約学を学ぶには最も基本の文献であるが、普通は専門家が(ないしそのための勉強をしている初心者も)用いるものであって、大多数の読者の場合は、御自分で直接ご覧になる機会は少ないだろうけれども、
しかし、この種の参考文献の欠点はどこにあるか、そして新約学の専門家と称している人たちが、いかにその欠点を知らずに安直にこういったものに依存しているか、という事実は、知っておいていただく必要はあろう。
1. バウアーの辞書の問題
元々は Walter Bauer が編集した新約聖書ギリシャ語辞典(Griechisch-deutsches Wörterbuch zu den
Schriften des Neuen Testaments)なので、通称「バウアーの辞書」と呼ばれているが、かなり以前から、Kurt Aland
が編集責任者になっているので、責任はバウアーよりもアーラントにあるのだけれども、ともかく、この辞書が新約聖書のギリシャ語に関しては、現在世界に存在している唯一の使用に耐える辞書であることに違いはない。
それ以外の『新約聖書ギリシャ語辞典』は、まるであてにならないから、単なる単語帳以上の意味は持たない。語学的に本当にしっかり調べ上げて、その上で辞書を作っているわけではなく、既存の有名な聖書訳を一定数集めて、その「訳語」をその単語の「意味」として並べただけの代物にすぎないのである。
要するに、ギリシャ語新約聖書の訳書の 訳語逆引き辞典、というにすぎない。 それじゃ、本当の辞書にはならないよ。 伝統的な、ないし世間に普及している(聖書協会が大量販売したせい)聖書訳の訳語には、すでに皆さん御存じのように、いろいろ問題が多い。それを、逆引き辞典 を作って、これが「新約ギリシャ語辞典」です、などと売り出してみたって、ただの単語帳以上の価値は持たないのである。
その意味で、新約のギリシャ語については バウアーの辞書だけ が、唯一、辞書の名前に価する、と言われてきたのである。
従って、新約学者の皆さんは、いつもこれを座右に置いて仕事をしておいでになる(はずである)。ただし残念ながら、日本語の新約学者さんの多くは、またアメリカの新約学者さんも同様だが、この辞書を本当に利用しておいでの方はめったにおいでにならない。この辞書の英語訳(F.
W. Danker 編訳)を利用なされば、ましな方である。しかしもちろん、こういうものの英語訳はあちこちあてにならない点があるから、お気をつけを。Danker
の編訳のものは、その前身である Arndt-Gingrich(こちらはひどかった!)よりはだいぶましだと言われてはいるけれども。
しかし、そのバウアーの辞書でさえも、他の領域のすぐれた辞書と比べれば、非常に大きな落差がある。 古代ギリシャ語の辞書であれば、有名な リデル・スコットの辞書と比べて ご覧になれば、そのことはすぐにわかる。リデル・スコットは、立派に辞書である。 これまで世界に存在してきた語学の辞書の中でも、最もすぐれたものの一つだから、それと比べられたら、劣って見えるのも仕方がないが。
バウアーのどこが駄目か。確かに一方では、一つ一つの語の意味を正確に調べて記載する努力を多くなさっておいでだが、しかし他方ではまだまだ、バウアーもまた、かなり多くの単語について、特に、語義がいろいろ問題になるややこしい場合には非常に多く、他の安手の新約聖書ギリシャ語辞典と同等なのだ。
つまり、語学的に正確に意味を見極めるのではなく、実質的には、ルター以来の伝統 で(ないし比較的最近の神学者たちの流行で)、その単語がキリスト教会ではどう訳されてきたか、という 訳語逆引き辞典 にすぎないのだ。
もちろん、それでも、バウアーはかなりな程度役に立つけれども、しかしやっぱり、新約ギリシャ語の初心者ならばこれに頼ってもいいけれども、専門家の立場にある人間が、自分で語学的研究に力を注ぐことなく、「バウアーに書いてありますから、この単語の意味はこうです」などという怠慢をやってはいけない。専門家であれば、少なくとも、バウアーの編集者たちと同程度の水準に立って仕事をしなければ(言っておくけれども、K.Aland は新約学の専門家じゃないんですよ!
教会史の専門家)、つまり、必要な場合には、この辞書の単語の「意味」の書き方に 十分に批判を加えるだけの水準 で仕事をするのでなければ、専門家とは言えないはずである。
実際、まことに残念なことに、佐竹明さん は、「バウアーにこういう訳語がのっています」というのを金科玉条のようにふりまわしておいでである(以下にあげる註参照)。
バウアーの根本的な欠陥 の一つは、単語の「意味」と「適用範囲」の区別がついていない ことである。 これは、辞書を作る人間がやってはいけない最も初歩的な間違いなのだが、バウアーにはそれが目立つ(たとえば、その点でリデル・スコットと比べてご覧になるがいい。リデル・スコット には、そういう初歩的な間違いはまず見出すことはできない。 ただしリデル・スコットは、こと新約のギリシャ語についてだけは、多分意識的に手を抜いて、欽定訳ほか伝統的な英語訳に出て来る訳語をそのまま「語義」としてのせていることが多いから、要注意。イギリスでは特に、こと新約聖書に関する限り、極めて保守的な教会当局につべこべ言われるとうるさいから、彼らは、俺たちは学者なんだから、新約聖書のことなんぞ知らないよ、教会にまかせとくさ、という態度を決め込んでいるのだろう。
意味と適用範囲について、たとえば、秋の空が青く透き通っている、と言う場合に、「空の青色」は透き通っていることの象徴である。けれども、だからとて、「青い」という単語の意味はあくまでも「青い」であって、これを、「青い」には「透き通っている」という意味があります、と説明するとしたら、それはまさに、単語の意味と適用範囲をこんがらがっている、と言われよう。 実際、日本語の辞書で、「青」という語の「意味」として「透き通っている」という意味をのせている辞書は、おそらく存在しないだろう。用例として、「秋の青空は透き通っています」という用例をあげている辞書なら、もしかすると存在するかもしれないが。
ところが 新約ギリシャ語の辞書となると、それをこんがらがって、適用範囲まで「意味」としてあげている ものが多い。バウアーの辞書までその落とし穴にはまりこんでしまったのである。
何故か。聖書解説者は、原文に何が書いてあろうと、これは有難いキリスト教信仰を比喩したものです、と言い立てることが多い。そうすると、彼らとしては、この単語はこういう場合の比喩にも適用されることがあります、と言うだけでなく(それなら一つの説明としては通じる)、それでは満足せず、この単語そのものにそういう比喩的な「意味」があります、とて、それをその単語の「意味」とみなして、辞書の「語義」の項目にのせてしまうのである。 極めて幼稚な語学的間違い。
以上を頭に置いた上で、以下の五つの註のバウアーの「語義」に対する私の批判 をゆっくりお読みいただきたし。 辞書を利用するには、まずその辞書の根本的欠陥を頭に入れておくべきなのだ。
2,1 「七つの星をつかんでいる者」(96頁以下)
5,5 「ダヴィデの根」の註 のうち 198頁末~200頁
6,8 「死」の註(266頁以下)
13,3 「打撃」の註(493頁)
18,3 「この町の贅沢三昧のおかげで」の註(674-678頁)
しかしバウアーの欠陥はこれだけではない。たとえば 21,18の註のうち 806頁はじめ。これは「意味」と「適用範囲」の混同ではなく、まったく根拠のない推量を書いているだけ。等々。
もちろん『訳と註』の目的はバウアーの辞書そのものの論評をするところにあるわけではないので、この辞書は、他にも非常に多くの点において、同種の間違いが多く見つかるけれども、それを我々の著作の中でいちいち多く指摘している暇はない。この辞書を利用なさる方は、御自分で注意してご利用なされたし。
しかしそれでも、他の新約聖書ギリシャ語辞典と比べれば、バウアーが桁違いにすぐれている、という事実に違いはないが。
2. ネストレ (新約ギリシャ語本文印刷本)
通称「ネストレ」ないし「ネストレ・アーラント」(Nestle-Aland)だが、つまり、新約の諸文書のギリシャ語本文を印刷発行したもの。 かつてはいろいろな学者、出版社がそれぞれの仕方で発行していたのだが、今では、これが標準版として用いられていて、他の出版社の版は駆逐されてしまった。
この種の市場独占状態は、それ自体としてすでに、頽廃を生み出す原因となるから、お気をつけを。
さて、ネストレ新版(26版以降)はまだまだ批判に価する点が多く残っているけれども(当り前だ。あれだけ大量に写本が存在する文献について、しかも、原著と現存の最古の写本との間には数百年も差があるのだから、正文批判と言っても、絶対確実な正解なぞわからない場合が多いのである。その点だけでも頭にあれば、ネストレ最新版を絶対確実な権威とみなして、それに頼り切るなぞ、学者のやることではない)。旧版(25版まで)の方が 新版よりも個々の個所の読みについて判断が すぐれている場合 も多い。旧版の作業がなされていた時代の方が、新版の時期よりも、まだまだ聖書学には徹底した批判的学問的精神が息づいていたけれども、新版の時代になると、聖書学にも神学的保守主義が支配するようになったせいもあるけれども、それだけでなく、もっと単純に、そもそも、旧版を担当していた学者たちの方が新版の学者たちよりもギリシャ語の語学力が高く、学問水準も上だった、という事情もある。
しかし、黙示録については、新約の他の文書の場合と比べて、ネストレの正文批判の水準は、一目でわかる程度に、低い。一言で言えば、露骨に手を抜いておいでである。今となっては(と言っても、20世紀の半ばより少し前頃からだが)、他の文書についてはもう克服された「常識」、つまりA写本絶対主義がいまだに幅を利かせている。比較的最近(と言っても、もうずい分前だが)発見された א や C、ましてやパピルス写本などの評価は、ネストレ黙示録では今でもまだ十分になされていない。註の書き方も手抜きが多い。たとえば、新約の他の文書の場合は、少なくとも多少は議論になりうる異読がある場合は、註には、その異読を示している写本はどれとどれで、ネストレが本文中に採用した読みを示している写本はどれとどれ、とはっきり書いてあるのだが、黙示録の場合は、本文中に採用した読みを示している写本がどれであるかを明示していないことが多い。また、重要な異読が存在しているのに、それに言及していないことも多い。要するに、黙示録なんぞ手を抜いておけ、という、極めて露骨な手抜き である。おまけに、27版でもその手抜きが多く見られるのに、28版では、その註の分量を大幅に削ってしまったのだから、なにをか言わんや、である。
今時の多くの「新約学者」が黙示録を扱う時に、ネストレを絶対的な権威とみなして、ろくに註も見ないですませているなぞ、そこまで学問を低下させてはいけない、としか言えない。
というわけで、我々の「註」では、ネストレ新版とは異なる読みを採用している場合が非常に多いのだが(もちろん、その場合はすべて、何故そうすべきかの理由を丁寧に並べている)、読者の皆さまがそれを全部お読みになるのは退屈だろうから、以下、なるべくわかり易い事例をほんのいくつか並べておいた。
1,7 の最初の註。 これは、どの読みを採用するか、という問題(狭義の正文批判)ではなく、本文を印刷する割付の仕方が間違っている例(これ、ひどいよ。ぜひ註をお読みいただきたし)。
1,8 「はじめであり、終わりである」 の註。 これは狭義の正文批判。
2,17 「マナから与える」の註(123頁)。これは、ネストレが註に必要な情報(この場合は重要情報)をほとんど記載していない例。
3,14 「証人、信実な者……」 の註 (161頁)。これは狭義の正文批判。 ネストレの編集者は、この個所の諸写本の異読をだけ見て正文批判をやっている。 しかし、この個所のような場合は、その書き手(ここは編集者S) のもの言い方の癖が頭に入っていないと、つまり、その書き手の似たような言い方の例を全部頭に入れておかないと、正確な正文批判はできないのに、それを御存じない。 実は、ネストレの編集者たちは、写本を扱う専門家ではあっても、新約の諸文書の研究者ではない。 つまり 新約学については素人。それじゃ正文批判はできませんよ。 この件、重要。
4,8 の最初の註 (184頁末)。ここも狭義の正文批判ではなく、句読点のつけ方を間違っただけ。ネストレ編集者は、ギリシャ語の文の理解が不十分。 ここは特にひどい。
5章まででこれだけ沢山あるのだから、後は推して知るべし(以下になるともっと多く出て来る)。だから、私の註を全部お読みになる時間の余裕のない方も、ネストレを右から左にそのまま絶対化して信奉するのだけはやめないといけない、ということだけは、覚えておいていただきたい。
ちなみに、黙示録学者でもやや以前の学者は、それぞれ自分の実力で正文批判をきっちりやっておいでで、ネストレにそのまま依存する、などという幼稚なことはやっておいででない。
以上のように、いわば単純な手抜き、ないしギリシャ語の理解不足と言える場合とは別に、もちろん、それ自体として正文批判が非常に難しい個所も多い。こういう場合は、単純にネストレが正しいか、他のどの学者が正しいか、私が正しいか、などと慌てて断定できるわけではない。そういう場合は、慌てて結論を欲しがらず、まず、それがどういう問題であるかを理解していただくのが重要である。その上で、可能性が比較的大きいか小さいか、ということで、一応の結論を推定しているだけのことである。
しかし、推定と言っても、こういう場合は特に、出来るだけ論拠を多く積み上げ、他の意見の論拠になりそうな点も十分に考慮した上で推定しているのである。
けれども、こういう個所に限って、内容的にも非常に重要な場合があるから、困るのであるが、たとえば 5,5 のはじめの「開く者」の註。「巻物の封印を開く者」という表現。これは、黙示録の書き手を原著者と編集者に分けて考える上では、非常に重要な個所なのだが、残念ながら、そういう個所であるのに、写本の読みが微妙である。従って、絶対確かな結論なぞは得ようがないが、しかしこの場合は、もしも黙示録に原著者と編集者の二人の文、語句が混在しているのであれば、この個所の正文批判についてはかなり高い確率で私の結論が正しい、と言えよう。
念のため、正文批判についても(ほかのすべての問題についても)、それらの問題の9割以上については、まずその問題そのものに取り組んで、それなりの結論を得た上で、その次に、その結論が果して、「二人の書き手」という私の仮説に適合するかどうかを検討するのであるが(この順を間違えてはならない)、しかし、5,5 のこの個所のように、それ自体としては非常に確実と言えるほどの結論は得られない場合がある。全体の1割弱の場合がそうである(正文批判については、多分もっと少ないだろう)。その場合だけは、仕方がないから、順序を逆にして、私の「二人の書き手」という仮説に従ったら、果してこの個所の正文批判はどうなるか、という考察を先になさざるをえないのである。
これは、相手が古代の文書であり、正文批判上の問題がそれ自体として結論を得られるとは限らないことも間々あるのだから、致し方のないことである。
しかし、5,5 の場合でも、私の仮説を基にして考えてみたら、何だそうか、それなら話はすっきりとわかる、という結論になるのは確かである。
(13) その他いくつか
1. 古代の言語なのに、どうしてその単語の意味がわかるのか
多くの場合、ヨーロッパの長い伝統で、よく用いられていた単語については、その意味もよく伝えられていた、ということですが、ややはっきりしない場合は、古代ギリシャ語の文献の中で主なものは 多くラテン語(ほかの古代訳)に訳され ていますから(新約の諸文書はすべて。それも後2世紀にはすでに訳されていた)、それと比べてみれば、ほぼ正確な意味がわかります(ただし、ラテン語訳にも多少の誤訳があるから
―― 特に新約の場合は ―― その点は要注意)。また、主な単語は 用例が非常に多く 知られていますから、多くの用例にあたれば、それでほぼ正確に意味はつかめるようになります。
しかしそうすると、では、他に用例がまったく見つかっていない単語(新約のその個所に一度出て来る以外には、他ではまったく知られていない)、あるいは、見つかってもほんの一、二例で、そちらの例の方も、前後関係からだけでははっきり意味がつかめない、とか、そういった場合に、どうして現代人の我々にその単語の意味がわかるのか、という問題。
この場合の一応の奥の手は、新約については、古代ラテン語訳があるし(古代の他の言語にも訳されている)、近現代語の翻訳の伝統もあるから、それを参照すれば、一応、わかったつもりになることはできます。しかし、この奥の手は、同時に落とし穴であるから、要注意。すでに古代の訳者とて、自分がギリシャ語を第一言語とするか、あるいはせめて、ギリシャ語で生活し、ギリシャ語で文化形成をなしていた、というわけでもない限りは、そういう単語の意味はよくわからないので、無責任に適当な想像で訳している、という場合が多いからです。
では、そういう場合、我々はどう訳したらいいのか。そういう場合の手続きの踏み方がよくおわかりいただける例をいくつか、今回の「註」に書いておきました。たとえば次の二つ。これ、非常に面白いです。
1,15 「白銅」(chalkolibanos)の註 。86頁末~90頁はじめ。
21,18 の最初の註、endōmēsis「組み込まれたもの」について。
また、6,4 と 12,3 の pyrros(「火焔色」 と訳した語)は pyr「火」の形容詞だから、一般のギリシャ語ではよく用いられるが(その場合は、色を指す場合は「火焔色」の意味で用いるのが普通)、新約では黙示録の原著者のこの2個所にしか出て来ない。しかしこれを既存の聖書訳者の皆さんは「火焔色」と訳さず、単に「赤い」と訳してしまった。
色を表わす語というのは、何せ、すべての語の中でも最も生活に密着した語の一つであるから、まことに微妙なものであって、その言語が用いられる環境で生きている人でないと、正確なところは、どういう色を指すのか、実際にその色を、これがそうだよ、と指し示してもらわない限りは、よそ者にはわからないものである。従って、新約の著者がこの語をどういう色を指すつもりで用いているのか(しかも同じ新約の他の著者は用いていない)、本当のところ、少なくとも簡単にはわからないものである。
この語については、6,4 の 「火焔色」 の註 を読まれたし。
2. 西洋古代史のあてにならない知識
西洋古代史の知識(ないし古代史上のその事柄に関する知識)をある程度以上正確に持っていないと、それに関して解説者がなしている説明がどの程度信用できるのかどうか、わからない場合がけっこう多い。
いや、非常に多い、と言うべきだろう。いや、これは、西洋古代史に限らず、歴史の事実に関する解説書にいつも見られる根本問題である。
新約の、特に黙示録の解説には、そういった、あてにならない「歴史的知識」が多く書いてあるのだが、そういうのを書きちらしている「学者」は、読者が必要な予備知識を持っておいででないのをいいことにして(そりゃそうだろう。
どんな読者だって、自分が専門にしている事柄以外は、そうそう多くの予備知識など持ち得ないものだ)、自分自身もよく知らない知識を、自分では調べもしないで、あたかもよく知られている常識の如くに、解説に書きつのる奴が多い。
こういうのは、読者にとっては非常な迷惑なのだが(読者は自分ではその知識が正確かどうかを確かめる手段を持たない)、その種の「学者」は、そういう場合に限って(そういう場合が非常に多いのだが)、何の根拠もあげずに、何の説明もせずに、結論だけを しれっとして断言なさる。しかし、古代史の解説については(歴史全般がそうだが)、どうしてそういうことが言えるのか、根拠をあげずに結論だけを短く断定的に宣言している場合は、残念ながら、まず、必ず、疑ってかかる 必要がある。
そして、新約聖書の解説書には、そういうのが非常に多い。聖書学者さんたちは、お互いの書いた論文だの著書だのはよくお読みになるが、その事柄に関する実際の
歴史資料そのもの を自分で直接検討する努力をなさらないことが多い(はっきり言ったら悪いけれども、彼らは古代ギリシャ語なり、その他の古代の言語について、実力がないから、自分で古代の資料に直接あたるのが大変なのだ。しかし、たとえ大変であろうとも、彼らだって、時間をかけて努力すれば、何とか読めるはずなのだが、それよりは、「学者」仲間が現代語で書いた「論文」だけを読んでいる方が楽 でいい……。
という次第で、お互いに孫引き、ひ孫引き、ひひ孫引きで結論だけを引用しあっているだけだから、うさんくさい 「知識」 が当然の知識であるかの如く次々と一人歩きしてしまうのである。
すでに上の(4)の6 でふれた「皇帝礼拝」の問題など、その典型。あるいは上の(4)の4 でもふれたが、神学的黙示録解説者の間では非常に流行っている「再生のネロ」なる伝説について。 どちらも、ひどくうさんくさい知識だから、ぜひ頭に入れておいて下さいますように(上の項目で指摘した註と付論)。
こういった事柄については、重要なのは、どういう歴史資料に基づいてそういうことが言えるのか、ということであって、具体的な歴史資料をはっきりあげて(個所の数字だけでなく、その個所そのものを正確に引用、ないし少なくとも正確に要約紹介して)、そこからどのように判断できるかを議論していない場合には、その種の「知識」は、少なくとも頭の中で疑問符を つけておかれるのがよろしい。
以上の二つと比べれば比較的小さな問題だが、黙示録の解説を読んでいらっしゃると、解説者が非常にしばしば、これは「パルティア人の脅威」を頭に置いているのです、などと書いておいでになるにに出くわすだろう。これなんぞ、彼ら聖書学者が自分では 歴史資料を何も調べずに、お互いにひひ孫引きで引用 しあっている典型。ひどいのになると、この時代において、パルティア人が実際にどういう存在であったのかについて、まったく何も知らないままにそういう解説を書いておいでになる。
これについては、6,2 の「白い馬、そしてその上に座す者」の註(231-234頁)。
更に興味がおありなら、16,12 の註「太陽の昇るところ……」の中で 佐竹明さんに言及しているところ(624頁)、また、17,2 のはじめの註で、その中の 659頁で同じく佐竹さんの意見に言及しているところ。
3. 初期キリスト教史の知識 (黙示録の編集者の文は、逆転して読め)
黙示録にはいくつか、黙示録そのものの問題ではなく、初期キリスト教史上のなかなか面白い事実を教えてくれる個所がある。
実は 編集者Sが書いた部分 だが、そこには何人かの人々に対して、ないしいくつかの流れの人々に対して、あいつらはけしからん奴だとばかりに、くそみそに悪口を言われている個所がある。しかしもちろんこれは、編集者Sのことだから、その時期のキリスト教会の中で、「異邦人」に対して開けた人たち、ないしキリスト教を世界中の、あらゆる民族の人々のものとして伝えようとしていた人たちのことを、あいつらは「穢れた異邦人」とつきあって、その「穢れ」を我々ユダヤ人の集りであるはずのキリスト教会に持ち込んでいる、と言って、無茶苦茶な悪口を並べているのである。
とすれば、つまりこれは、歴史資料としては、逆転して読まない といけない。編集者Sが悪口を言っている人たちこそ、本当は非常にすぐれた人たちなのだ、と。そう思って読んでみれば、この悪口もまた、非常に 貴重なキリスト教史の資料 である。
たとえば 2,6 の「ニコラオス派」についての註、また 2,20 の「イェザベルという女」の註をはじめとして、この節のすべての註。
この件、なかなか面白いです。ぜひお読みを。
4. 最後に蛇足(アプサント)
十分にお暇があって、野次馬的根性を持ち合せておいでの方は、暇つぶしとして、8,11 の「アプシントス(苦よもぎ)」の註(348頁以下)をお読みください。 日本では 「アプサント」 という名称でで知られているアルコール飲料の話。楽しい註です。
たまには、こういう息抜きもよろしいでしょう。
以上
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