『新約聖書・訳と註』 第6巻 公同書簡とヘブライ書 作品社
   この巻の特色 その2


(2) ヤコブ書

  現代に生きる人にとって、新約聖書の中で、最も面白い文書の一つとして、
  もしかすると 「の一つ」 ではなく、「最も面白い文書」 として、読むことができるのはヤコブ書でしょう。

    もちろん、歴史的功績の大きさ、伝えてくれている情報の大きさ、多さ等からすれば、
    マルコ福音書とは比べようもないとしても。

  ヤコブ書は小さな文書です。その小ささでありながら、そして、古代人らしい文章のつたなさはいろいろあっても、
  現代人に直接訴えかけることができるほどのことを、あのように書けている。

  ただし、正確に、わかり易く、鮮明に訳してあれば、の話ですが。
  そしてその文書の歴史的位置が的確に見えていれば、ということですが。

  読者の皆さんに、是非、お読みいただきたい、と思います。

  私は、この、小さいけれどもすぐれた文書を、今までの翻訳が、意図的な改竄
  また、無意図的ではあれ、勝手な偏見を多く持ち込んだ誤訳が
  そして解説と称して原文とまったく無関係な神学的思惑をいろいろ塗りたくって、
  この文書の鮮明な実態がほとんど見えなくなるくらいに覆い隠してきた
  従来の翻訳、解説に、大きな憤りを押さえることができません。

  この著者は正直、鮮明にパウロ批判を展開している。
  しかしそのことさえも、従来の神学者たちは、何とかしてそれを正直に認めまいと誤魔化し続けてきた。
  だから、その点でもこの文書の特色を正直に見えるように、皆様の前に提示する必要がある。

  しかしこの文書は単にパウロ批判だけをこととしているわけではない。
  それを通じて、あるいはそれとは無関係な点でも多く、もっと大きな大きな、
  重要な問題を提示し、重要な視点を提供してくれている。

  「人間には生得のロゴス (理性) が与えられている。それを素直に受け入れて、ロゴスを行なう者として
  生きようではないか」 (1,21-22)。

  このように当り前なことを、このように鮮明、素朴に言い切った人は、めずらしい。
  そして、この単純明快、そして力強い文を、このように正直率直に翻訳することをしなかったこれまでの聖書訳って、
  いったい何だったのか。

  著者は言う、「ロゴスにおいて過つことなく、完全な者として生きる」 ことができるような人は存在しえない (3,2)、
  それでも我々は、ひたすらロゴスを実践しつつ生きていこうではないか」 (3,13)。

  新約聖書の文書は何でもかんでも宗教的説教だと思って読むからいけない。
  ヤコブ書の著者はむしろ、宗教の水準なんぞふっとばして、素直に人間の普通の姿を生きていこう
  と呼びかける。それが 「ロゴス」 というものだ、と。

  彼の 「ロゴス」 はわかり易い。
  「あなた方のうちで知恵があり、理解力のあるのは誰か。
  その人は……知恵の柔和さにおいて、自分の行為を示すがよい」(3,13)
  つまりロゴスとは、行なうべきことを素直に、自分の行為として実践する、そういうことである。

  ではその実践とは何か。これまた彼の文は素直に鮮明である、
  「宗教行為とは、世の中で困っている人がいたら、その人たちのことを気遣い、手をさしのべることである」(1,26)。

  あとは御自分で原文をお読みいただくとして、短く指摘するだけにとどめますが、
  たとえばここから出て来る 「自由の法」 という理念。

  ヤコブ書については、さすがに私も、すでに以前からかなり緻密に検討していましたから、十年前に訳しても
   「生得のロゴス」 はちゃんと 「生得のロゴス」 と訳したでしょうが、
  (だいたい、素直に訳せば、これはこうとしか訳せない)
  しかし、十年前ではまだ、このロゴス理念がヤコブ書全体を貫く基本理念だ、というところまで把握できたかどうか。

  「自由の法」 も、訳としては御覧のように簡単ですが、著者がこの表現で何を言おうとしているか、
  この著者のロゴス思想の基本が全体に通っている、ということが見えてはじめて、
  それなら 「自由の法」 という表現で、多分こんなことを言おうとしているのかな、と、ほぼ理解がついた。

  この基本姿勢の上にはじめて、彼のパウロ批判の意図するところも理解できるようになります。
  彼は、パウロ系の教会の中で、金持の会員、この世で何ほどかの勢力、権力のある奴がちやほやされ、
  他方、貧しい人間が鼻の先であしらわれている現状が我慢できなかった。
  この状態の中で、パウロみたいに 「人は信仰のみによって救われる」 などと説教してみたとて、
  何の意味があるのだ (2章)。
  それよりも、自分のまわりに日々の食べ物に事欠く人がいたら、まずそちらを気遣おうではないか (2.15)。

  いや、これは単に、身近な人々への配慮、という卑近の視野にとどまらない。
  というよりも、この人は、この種の卑近の事柄はすべて、この時代のローマ帝国支配下の
  巨大な経済支配のシステム、古代資本主義の機能と密着している、という事実を知っている。
  だから彼は、同じ文章の中で続けて、何度もくり返し、この経済支配のシステムの中でぼろ儲けをし、
  大金持になっている者たちのことを、人口の1%の金持どもが人類の富の過半を独占するというおぞましい状態を、
  露骨正直に指摘して批判したのである。

  「見よ、あなた達 (大金持の資本家)が所有している土地を実際に耕し、
  収穫物を刈り入れる労働をした労働者たちの賃銀を、あなた方は搾取している。
  その搾取された賃銀が叫んでいる。その叫び声が万軍の主なる神の耳に達している。 彼らの裁きは近い」(5,4)。
  この有名なせりふは、ヤコブ書の中で生き生きと生きている。 悲しく切実に生きている。
  そして、このせりふがそのまま今の我々の時代でも同様に言われなければなないことについて、
  我々は今何と答えよう。

  ほかにも、露骨に誤訳されたが故に、読者に伝わらずにいた面白い発言があちこちに見られる。
  「我が兄弟たちよ。多く教師になるな。……我々は誰もが過つものである」(3,2)。
  この巻の中に入れられた第1ペテロ、第1ヨハネなどのうさんくさいキリスト教、つまり教会の中で教師づらをして
  威張りくたがる連中に対して、こういうせりふを叩きつけた人物も、同じ1世紀のキリスト教の中に存在したのだ。

  その連中は、教会の教師たちはお偉い指導者なのだから、信者たるもの、おとなしく教師の言うことに聞き従いなさい、
  と言いつのっていたのだ!

  ヤコブ書のこの鮮明なせりふを、マルティン・ルター以来今にいたるまで、世界の聖書翻訳が正反対の意味になるように 「翻訳」 し続けてきた。
  世界の翻訳史上、もっともおぞましい改竄の事例の一つである。

  そして、自分たちの信じるドグマだけを 「正統主義」 的に、つまり排他的に信奉し、
  それに与しない他のキリスト信者たちをむきになって追い出そうとする 「異端」排除の動きは、
  すでにこの時期のキリスト教会の中でうごめいていた。
  それに対してこの著者は叩きつけた。
  「互いに互いをそしるな、兄弟たちよ。……隣人を裁こうという汝は何者なのか」
  「あなた方の中にある戦さはどこから生じるのか。
  あなた方の四肢の中で進軍しているあなた方の欲望からではないのか。
  だが、あなた方は欲するが、手にしない。それであなた方は殺す。……」(4,1-3)
  
  たとえば第1ヨハネに見られるえげつない「異端」 排除の嫌らしさを正直に見ることができれば、
  なるほど、この連中のこの状態なら、ヤコブ書の著者がこのせりふを憤りをもって叩きつけたのも無理はない、
  と納得なさるだろう。

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