『新約聖書・訳と註』 第6巻 公同書簡とヘブライ書 作品社
この巻の特色 (3) ヘブライ書
(3) ヘブライ書
第6巻に入れた文書の中で、もう一つ読むに価するのは、ヘブライ書です。
しかしこちらは、今となっては、あまりに古代色蒼然としていて、そのまま読んでもなかなかぴんとこない。
もはや我々には興味がない古代人の屁理屈を次々と並べ立てている古代人のドグマ遊び、と思えます。
事実、かなりな程度、そうです。 だから今ではあまり人気がない。
その結果、実はこの本に多くひそんでいる長所、魅力が、これまでなかなか読者に伝えられることがなかった。
もっとも、古代人の水準としては、これはこれで、知的水準、知的考察力という点で、非常に高い水準のものだった、
と言うことはできましょうけれども。
けれども、その水準の全体が、今となっては、あまりに古色蒼然としていて、どうもね、ということです。
私もずっとそう思っていました。
しかし同時に、古代人としてはあれだけの高さの知的水準を保っているのだから、
そしてものを考える時のこの人の姿勢には、何というか、非常に誠実な姿勢が常に感じられる、
その人が一所懸命書いた文章が、いかに時代が異なるからとて、 「古色蒼然」
と言って片づけられるものかどうか、
ということが、私にはずっと気になっていました。
その疑問に自分なりに何とか、少しでも、答えることができるところまで、今回は本気になって取り組んでみよう、と。
全体としての第一印象は、これは、旧約聖書の引用集、
ないし引用したせりふを適当に自己流に 「解釈」 する、旧約解釈のお遊びの本、ということです。
こういう、ある種のひどく狭義の文学的お遊びと、ドグマ的理念のお遊びを、面白がって並べてくれたって、
今更しょうがないじゃないか……。
少なくとも私の場合はこれまで、この著者の文章、旧約の引用を次から次へと積み重ねていく、その基本姿勢を、
このように単純に、誤解しておりました。
新約における旧約引用と言えば、ヘブライ書を除くと、代表格はパウロとマタイ福音書です。
どちらも、一方では、ユダヤ教の基本的な質を、何とか根本的に乗り越えようと努力した、すぐれた著者です。
その点で、いろいろ説得力があった。
しかし彼らは、新約の著者たちの中でも目立って、やはりユダヤ人意識を濃厚に保存し続け、
従って、旧約聖書を絶対的な権威として崇めつづけている。
だから彼らが旧約聖書を引用する場合には、
「旧約聖書にはこのように書いてある、だからこれが真理だ」 という姿勢で一貫している。
まさに、教条的聖典主義、というものです。
それが頭にあるから、我々は、つい、ヘブライ書の旧約引用も、やはり同じ姿勢で、
旧約に書いてあることを真理の絶対の基準とみなして、
それを根拠に置いて、自分たちのドグマを形成しようとする、そういうものだ、と、ついつい思い込んでしまう。
今回第6巻の作業で気がついたのは、どうも、その点に、つまり出発点の前提に、
間違いがあるのではないか、ということです。
私とて、すでにある程度は、ヘブライ書の何たるかは知っていました。
この著者は、明白にいわゆる 「異邦人」 の出身である。
だから、キリスト信者になって、はじめて旧約聖書に多く接するようになった。
しかし、はじめから旧約聖書を絶対的な権威だと思っていたパウロやマタイと違って、
この著者はこの前提を持っていなかった。
彼が出会ったキリスト教は、ユダヤ教を克服するところから出て来た新しい宗教運動であったはずである、
だからこそ自分はそれに参加しのだ、、という意識だったはずです。
そのことは、この文書全体にわたって、この著者の文のあちこちにはっきり示されている。
けれども、彼が出会ったキリスト教は、同時に、パウロ等に見られるように、旧約聖書を絶対的に信奉しており、
何が真理であるかを言うには、いつでも、ただただ、旧約聖書を引き合いに出すことしかしていなかった。
とすると、この著者の課題は、
自分は、自分が出会ったキリスト教の基本前提をまず受け入れてキリスト信者になったのだけれども、
そのキリスト教は同時に、自分たちが克服したはずのユダヤ教聖典を、
事実上相変らず、唯一の絶対的権威としてかつぎ続けている、
これは根本的な矛盾ではないか、
その矛盾をどのようにして解決するか、ということだったはずです。
だから彼は、あれだけむきになって、旧約聖書を勉強し、その引用を大量に並べ立てて、
この問題に彼なりに取り組もうとした。
そして、その引用を並べながら、実はキリスト教はユダヤ教を克服した宗教なのだ、ということを、こともあろうに、
その旧約聖書そのものの引用によって立証しようとした、
これがこの人の基本課題だった……。
と、それまで私はヘブライ書というものの位置をとらえていました。
ここまでのところは、私も間違ってはいなかった、と思います。
しかし、この著者がその先に何を見ていたかが、私にはまだ見えていなかった。
だから、私も仕事だから、ともかくヘブライ書の 「訳と註」 も
自分にできる限り緻密に完成する作業を手を抜かずに頑張りますけれども、
しかし、ヘブライ書の取り組んでいる課題そのものは、我々にとってはもはや無駄な、
つまらぬドグマ的努力にしかならない、だからそもそもつまらない、
と、思っていました。 それを正直に申し上げよう、と。
何故なら、この基本課題の前提そのものが、
つまり旧約聖書が絶対的な聖典であり、ここに書いてあることが真理であることの保証である、という信仰そのものが、
要するに古代ユダヤ教の自己絶対化のドグマにすぎないので、
その前提そのものが宗教信者の自己絶対化の虚妄な狭隘さ、
としか言えないので、それなら、そんな基本課題は、そもそも我々にとってもはや何の意味もないのだから、
その環境に生きていた古代の誠実な知識人がその課題に誠実に取り組もうとした気持はわかるけれども、
我々としては、古代人はまだまだこんなことに取り組まないといけなかったのですよ、
ということを確認すればすむ、……。
まあ、そういうことです。
ところが、実際に 「訳と註」 の作業を進めていくと、この人、そんな簡単にけりをつけていい相手ではない、
ということがいろいろ見えてきた。
まず、自分でも驚いたのが (こんな明白な事実に、何でこれまで気がつかなかったのか、あきれた話ですが、
私だけでなく、世界の聖書学者さんも皆さん気がついていなかった。
この著者、あれだけ多くキリスト教のドグマを語りながら、イエスの復活にはただの一度も言及しない!
え? まさか、と最初は私も思いました。しかし、何度読み返してみても、これは鮮明な事実である
(4,14 の 「註」 を見られたし)。
たとえば、9,24 では、話の流れはキリストの死を主題として扱っている。
そしてその中で、「キリストは (今や) 天に入った」 と言う。
当時のキリスト教の常識なら (今時のキリスト教の平凡なドグマでも)、
「キリストの死」 と 「キリストの昇天」 の二つを並べたら、両者の間には、必ず、
「キリストは復活した」 が入るものです。
むしろその点をこそ、彼らは最も強く強調する。
ところが、この著者は、そういう文脈においてさえも、キリストの復活については、一言も言わない。
これは、当時のキリスト教文書としては、強度に意識しないと、できないことである。
つまり、単なる偶然ではない。 著者は非常に意識して、こういうことをやっている。
暗黙のうちに、この著者は、自分は敢えてキリストの 「復活」 になんぞふれないよ、と言っているのである。
この著者の文章を理解する要は、むしろ、敢えて言わない、という暗黙の点にあるのではないのか。
確かに、この著者程度の知識人であったら、いかに古代人とはいえ、
手ばなしで嬉しそうに 「復活、復活」 と言い立てるのは、いささか躊躇があっただろう。
本当のところ、たとえ古代人であっても、やはり、[キリストの復活」 などというのは、所詮、迷信にすぎない。
キリスト教が世界大の宗教になり、その出発点においてキリストの復活をドグマの要として語り続けていたせいで、
以後二千年の歴史において、皆さん、建前上は、キリストの復活を信じているようなふりを続けてきた。
しかし、本当は、どこからどう見ても、これはただの迷信にすぎないのである。
キリスト教がうまくやったのは、その迷信に、いろいろ宗教信仰的には面白いドグマの理論を多く
かぶせていったからである。だからそれは深い宗教理論のように思われてきたのである。
けれども、迷信はしょせん迷信である。
ヘブライ書の著者ほどの知識人であれば、その程度のことはよくわかっていただろう。
だから彼は敢えて、他のキリスト信者ならば必ず 「キリストの復活」 に言及するような場合でさえ、
「復活」 には言及しないのである。
ましてや他の場合には。つまり、この文書全体を通じて、ただの一度も。
誤解のないように一言つけ加えておくと、13,20 では、「死人の中から連れ出す」 という言い方で、
キリストの 「復活」 に言及している。
ただしこの部分(13章末尾)は、この文書に後になってつけ足された個所である。
ヘブライ書を書いたのは使徒パウロです、という奇妙な体裁をつけて箔をつけようとした人物による下手な作文。
そう思って読んでいくと、この文書には、このように、敢えて言及しない、という暗黙の要がいくつも見出される。
ここでは敢えてそのすべてをあげることはしないが、それをつないで見ていくと、
この著者の、古代人にしてこれだけの透徹した宗教批判意識を持てたのか、と驚きたくなるような姿勢が
鮮明に見えてくる。
敢えてあげない、と言っておきながら、一つだけあげると、
この著者はイエスの直弟子である 「使徒」 たちにも、ただの一度も言及しない。
「使徒」 という単語は出て来ないし、「十二弟子」 などの言い方も、ペテロ等の固有名詞も出て来ない。
そして面白いことに、たった一度だけ用いている 「使徒」 という語は、キリストにあてはめて用いている。
キリストこそ、神と人間との間をつないでくれる唯一の使徒なのだ、と。
この用語に見られるこの著者の姿勢は鮮明である。
神の前にあって、すべての人間は同等の存在である。
人間たちに対して神を代表する聖職者的役職などというものは、ありえないのだ!
この著者は、人間社会の中に権威的な者を設定する宗教組織の形成の仕方そのものに反対なのである。
この点も、この文書を注意深く読めば、鮮明にわかってくる。
ほか、いろいろ (「註」 と 「解説」 をお読みいただきたし)。
そして、これらの暗黙の要を丁寧に確認していくと、それと表裏一体になって、
表で明示的に論じていること、つまり大量の旧約引用とその解釈であるが、
その趣旨も、鮮明に見えてくる。
途中をすっぽかすが、この著者の旧約引用の基本趣旨は、後半に行けば行くほど、はっきりしてくる。
例のわけのわからぬ 「(キリストは)、永遠にメルキセデクの位にに対応する祭司である」 という言い方などで、
この著者は、わけのわからぬドグマを展開して楽しんでいるように見えるが、
実はそれを通じて言おうとしていることは、鮮明である。
人間社会には神と人間をつなぐ祭司など、必要ない。
神の子たるキリストだけが神と人間をつなぐ唯一の決定的な祭司なのだ。
そうである以上、
人間社会には祭司など存在する必要はない。
ましてや、その祭司が牛耳る神殿祭儀なぞ。
この著者が、後半になればなるほど集中して、むきになって言い立てているのは、この点なのだ。
これがこの文書のほとんど唯一の中心課題である、言ってもいいくらいに。
ということは、つまり、祭儀宗教などというものは、もうやめよう、という呼びかけなのだ。
当時の世界にあって、ユダヤ教は最も典型的に、祭儀宗教であった。
エルサレム神殿の祭儀組織がユダヤ教全体の極めて権威的な中核だったのだ。
それは、宗教ドグマ的にもそうだし (エルサレム神殿祭儀を通じてこそ、ユダヤ教徒は神とつながることができる)、
ユダヤ人社会全体の経済組織としても、神殿貴族の経済支配こそがユダヤ人社会の権力を形成していたのだ。
著者は、ユダヤ教のこういう実態を頭に置きつつ、神と人間の間をつなぐのに、
この世の社会の中に作られた神殿組織、宗教組織、祭儀体制なぞ、必要であるわけがない、と言い切ったのだ。
神の子たるキリストが神と人間の間をつないでくれる以上、神殿も、祭儀も、祭司も、もはや必要ないのだ!
と、そこまではっきりとユダヤ教批判を宣言した著者であってみれば、
その批判があてはまるのはユダヤ教に対してだけだ、などと勝手な手前味噌を考えるわけがないではないか。
当時の宗教は (今でも)、何のかんの言っても、やはり祭儀が宗教組織の中心であった。
これはユダヤ教に限らない。地中海世界、中近東世界の全体において、一神教だろうと多神教だろうと、
宗教組織はおしなべて祭儀を中核としていたのだ。
とすれば、知的に誠実であろうとすれば (現にこの著者は新約の著者たちの中でもすぐれて知的に誠実である)、
こういうところで自己矛盾をほっておくことはできない。
祭儀宗教たるユダヤ教をこの調子で批判するのであれば、その批判の矛先は嫌でも自分にふりかかる。
いえね、キリスト教だけは別格です、キリスト教会の祭儀行為こそ、本当の祭儀なのです、
などという身勝手な手前味噌が通用するわけがない、ということは、
この著者の知的に誠実な姿勢からすれば、すぐにわかったことだろう。
とそこまで見てくれば、この著者の、他にもいろいろある暗黙の要点が全部つながって見えてくる。
彼は 「キリストの復活」 「使徒」 などについてだけ黙しているわけではない。
洗礼、聖餐というキリスト教の二大祭儀、二大儀礼についても、まったく口を閉ざして、言及することをしない。
そりゃまあ、そうだろう。あっちの神殿祭儀はすでに無用になりました、
しかし私たちの新しい宗教儀礼たる洗礼と聖餐こそ、本物の宗教儀礼なのです、
などという勝手な自己矛盾が許されるわけがないのだ。
彼にとって、キリスト教はユダヤ教を克服したのだ、ということは、
キリスト教はもはや祭儀宗教、祭司 (教会教職者組織) 制度、なんぞ、すべて克服した、ということなのだ。
この著者、一度だけ 「洗礼」 に言及している。5章末から6章はじめ。
そこで彼はいみじくも宣言する、もういい加減にいつまでも 「乳幼児に与える乳」 のような
初歩の教えばかりを鸚鵡のようにくり返すのは、やめようではないか、
「洗礼と按手」 についての 「(初歩の) 教え」 をいつまでもくり返していたって、しょうがないではないか。
彼は教会の教師たちのこの姿勢を 「うすのろ」 と呼んで、露骨に軽蔑している。
ちょっと悪口にすぎるが、まあ古代人だから仕方がない。 しかし、強烈な悪口である。
この批判は、当然ながら、現に存在している教会の教師たちにも向けられる。
自分たちを 「権威ある教師」 として確立していた連中である、
あなた方は長い間教会の教師であったはずなのに、こんなこともわからない
「うすのろ」 なのか!
(ここのところも、既存の聖書訳は露骨に改竄して「訳」している)
もうそんな水準は離れて、我々はみんな (聖職者だの平信徒だのと言わないで)、
誰しもが、それぞれ、「善と悪を識別する完成された者になる」 ように努力しようではないか。
だからこの人は、もちろん、洗礼と並ぶもう一つの教会儀礼 「聖餐」 にもまったく言及しない。完全黙殺。
我々は、今更そんなけちくさい教会儀礼を組織化するために一所懸命ユダヤ教批判をやったんじゃないんですよ。
等々、この著者、ほかにもいろいろ痛烈である。
しかし、その特色は多くこのように 「暗黙の要点」 として出て来るので、
本文の翻訳を読んでいるだけでは、なかなかつかめない。
すみませんが、願わくは、「註」 をゆっくりお読みいただきたし。
最後に、それとはまったく別水準の事柄だが、技術的な問題として、
この著者の旧約引用の仕方について、私は大量の註をつけざるをえなかった。
これらの註は、それ自体としては、読者の皆さんにとっては、決して面白くも何ともないだろうから、
お時間のない方々が苦労してお読みいただくこともない、と思いますが、
ただ、これらの註の技術的な重要さは頭の片隅に置いておいていただきたし。
そもそも旧約聖書とはどういう代物なのか (彼ら初期のキリスト教徒たちが知っていた旧約聖書なるもの)、
このことは、つい我々も、解説や註を書く時に、よく知られた事実であるかのように扱ってしまうのだが、
本当のところ、彼らが知っていた旧約聖書と、今頃になって我々が知っているつもりになっている旧約聖書は、
もちろん同一ではありえない。
ヘブライ書の著者が、旧約聖書の××書の○章○節を引用しています、とか言ったとて、
その○章○節を、我々の手元に印刷本として存在している 「旧約聖書」のその個所を明けてみたところで、
同じ文であるかどうかなぞ、まったく保証されないのである。
大前提として、我々は彼ら1世紀のキリスト信者が読んでいた旧約聖書のことは、正確なところは、よくわからない、
という事実を、ともかく徹底して常に頭に置いておかねばならない。
我々が知っている旧約聖書は、つまりヘブライ語本文だが、
中世ヨーロッパ (及び多少中東)のユダヤ教ラビが筆写した写本を元にしたものである。
新約の諸文書の場合は、古代の写本も多く残っているし、そこからかなりな程度正確に
それらの文書のギリシャ語原文を復元することができるけれども、
(もっとも、それとてかなりな限界がある。ネストレの印刷本が新約聖書のギリシャ語原文だ、
などと思うのは、幼稚な信仰にすぎない)、
旧約聖書となれば、古代、後1〜2世紀の人々が読んでいたものと、我々が知っているヘブライ語テクストとは、
あまりに時代が遠すぎる。
このことは、七十人訳 (古代になされたギリシャ語訳) と、今日我々が知っているヘブライ語本文を
読みくらべてみても、すぐにわかる。
当然ながら、中世もずい分後になって書かれたヘブライ語本文なんぞよりも、
七十人訳の方が、古代の旧約聖書のヘブライ語原文に近いと思われる点は大量に存在する。
(そして、その点は、まだまだ十分な研究はなされていない)。
しかし、その七十人訳についても、実は、我々は、よく知らないのである。
一言で言えば、新約聖書の場合は、我々が知っている古代の写本と、
元来の著者が書いた本文と思われるものとの距離は、かなり近い。
七十人訳となると、しかし、1世紀のキリスト信者が読んでいた七十人訳本文と、
今日我々が持っている七十人訳写本との距離は、あまりに遠いのである。
我々が知っているのは、その後ずい分と紆余曲折を経ながら、やっと伝えられてきた代物である。
とすると我々は、まず、ヘブライ書の著者が読んでいた旧約聖書の本文 と
(彼は旧約を七十人訳のギリシャ語で読んでいた) 、
我々が知っている旧約聖書 (ヘブライ語本文にせよ、七十人訳本文にせよ) とが、同じである、という幻想を
捨てねばならぬ。
我々が、ヘブライ書の著者が読んでいた七十人訳の本文を正確に復元することなぞ、とても無理なのだ。
この点でも、我々は謙虚にならないといけない。知ったような顔をして、ものを言ってはならないのだ。
そのことをわかっていただくために、いささか詳しすぎると思われるほどに、私の 「註」 では、
ヘブライ書の著者の引用文が、どの程度今日我々が知っている旧約の本文と一致するのかしないのか、
という問題を、面倒がらずに丁寧に細かく、論じておいた。
たとえ、それらの註をお読みにならなくても、この点だけは、頭に置いておいていただければ幸いである。
しかし、せめて、この問題をおわかりいただくために、「七十人訳」 についてのやや長めの
「付論」 をのせておいた。
これは、かなりわかり易く、すらすらお読みいただけると思うので、是非お読みいただきたし。
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