新約聖書・訳と註』 第6巻 公同書簡とヘブライ書 作 品 社
    この巻の特色 (4) 第1ペテロ

(4) 第1ペテロ

  逆に、第1ペテロと第1第2ヨハネは、読む価値がないどころか、こういう文書が書かれたということ自体、
  それが新約聖書の中であろうと、キリスト教のどこかであろうと、キリスト教に関係のないどこかであろうと、
  ひどく不愉快な、おぞましい現象です。
  いずれもおそろしく低級低質でえげつない、第1第2ヨハネなどそれに加えて、おどろおどろしい。

  けれども、逆に、こういうものが存在したという事実、
  それも2世紀後半以降のキリスト教会がそれを積極的に 「新約正典」 の中に採用した、という事実は、
  歴史の事実として、正直に直視しないといけません。
  この手の代物を、誤魔化して正当化するような作業は、絶対にやってはいけない。

  これは、キリスト教史の中の、すでに新約聖書の時代から出現しはじめた、大きな汚点のはじまりなのです。
  それが中世キリスト教の巨大な暗黒へとつながった。
  その意味で、面白くないでしょうが、面白くないどころか、今時こんなものをお読みになれば、不愉快で、
  ただいらいらなさるでしょうけれども、
  歴史の事実を知るために、こういうものも存在したのだ、ということを
  一度は、御自分の眼で確認しておいて下さいますように。

  第1ペテロの言っていることは、単純です (2,13-3,7)。
   1. ローマ皇帝、ローマ帝国の支配機構に、誰もが従順に従え!
   2. 奴隷、召使は雇主の主人に対して、絶対服従せよ!
   3. 女は男に、自分の夫に従順に従え!

  この単純にえげつない身分制秩序の 「倫理」 を、鼻の下を長くして、いけしゃあしゃあと説教しておいでである。
  これは、第1ペテロだけの特色ではなく、すでにパウロ自身が基本的に同種のことを何度も言い立てていた。
  しかしパウロの場合は、彼の 「福音説教」 とは無関係に、
  だいたいあの人はこの世の現実の中で生きる倫理についてはひどく無反省で、「福音説教」 を語るついでに、
  よせばいいのに、時々、自分ではろくに何の反省もしていないこの世の現実において生きる倫理の問題に口を出す。
  しかし自分は何も反省していない事柄だから、単にこの種の、やたらと因習的な身分制秩序の、
  我々の言うところの 「封建的」 な 「倫理」 を、本当にまるで無反省に、鼻の下を長くして説教してしまう。

  これは ユダヤ人律法学者に多いが、律法学者だけ、ユダヤ人だけでなく、世界どこにでも見られる
  月並だが、因習的にしつこい支配秩序の押しつけにすぎない。

  これが、私がからかい半分に、パウロ系 「三従の教え」 と名づけたものです。
  本当は 「三従」 ではなく、これにもう一つ 「4.子どもは親に従え」 というのがくっついて、
  「四従の教え」 になっていますが、
  それぞれの著者がそのうち気に入ったものを三つぐらい拾い出して、言いつのっている。
  パウロはまだ、それを一個所に全部並べて言うことはしておらず、
  折にふれて、あちこちで、そのうちのどれかを言い立てている。
  しかしパウロ書簡全体を見ると、この四つ (ないし三つ) がそろっています。

  それを擬似パウロ書簡群 (そのうちコロサイ書、エフェソス書、牧会書簡) が継承した。
  しかしコロサイ書、エフェソス書はまだ、パウロの神学思想を継承し、それを自分なりに展開する中で、
  ついでに 「三従の教え」 にもふれているだけである。
  もっとも、コロサイ書ではまだ、自分もパウロ系だから、多少はこれにもふれておこうか、と、遠慮がちに
  ほんの2、3行述べているだけですが、
  エフェソス書となると、すでに、かなり大幅にむきになって言い立てるようになった。

  牧会書簡もこれを継承していますが、
  ほかの点では牧会書簡というのは悪しき 「正統主義」 のはじまりで、まことに嫌らしい文書なのですけれども、
  この点については、パウロ系封建倫理を、いわばよく考えないで、そのまま継承しているだけです。
  もっとも、権威主義的 「正統主義」 なんぞを形成しようとすると、
  その姿勢で下手に倫理的な説教に手を出すと、所詮、こういうことにしかならないものですが。

  ただ、ここまではまだ、ほかのこともいろいろ言う中で、三従ないし四従の教えにもふれている、という程度です。

  それが、第1ペテロとなると、この文書全体の中心主題となってしまった。
    第1ペテロというのは、詳しいことは 「解説」 と 「註」 をお読みいただくとして、結論としては、
    擬似パウロ書簡群よりももっと露骨に強く、やたらとパウロの真似をしたがっている文書です。露骨なパウロ主義者。

  もちろん、いくら保守的な神学者とて、現代に生きる人間であれば、いくら 「聖書」 に書いてあるからとて、
  こんな代物を有難くかつぎあげることはしませんが、
  しかし、彼らの護教精神からすると、こういうものを正直に正面から見つめることもできない。

  これは、人類の長い歴史の中では、これまで、どの社会の中でも、似たような形で、必ず出現した代物です。
  体制社会の身分秩序を、支配下にある人々に、「倫理、道徳」 として、押しつける。
  一人一人の人間の自主、独立を妨げ、一人一人の人間の人権を抑圧する
  その抑圧、弾圧を 「道徳」 の何よって押しつけようとする代物です。
  人類が長い間かかって、今ではこれを、ようやく、かなり克服するようになってきましたが。

  しかし、新約聖書の中でも、パウロ系文書では (パウロ系だけですが)、こういう代物が幅を利かせていた、
  という事実は、歴史の一つの事実として、正直に認めないといけない。

  ところが、伝統的な神学者たちは、これを、正直に認めることをしなかった
  キリスト教の初期の歴史においても、こういうものが幅を利かせていました、と明白な事実を、
  何とかして認めまいと、頑固に眼をそむけ続けてきた。
  何だ、かんだと言葉を濁し、ひどい神学者になると、これは聖書に書いてあるから結構なことなのです、と説教し、
  あるいは、ごまかし護教論がお好きな神学者は、パウロ大先生はそんなことはおっしゃっていません
   (そこまでまっ赤な嘘をつくなよ)
  パウロ大先生をよく理解しなかった一部のパウロ派の人たちが書き立てただけなのです、とて
  彼らの崇拝する使徒パウロだけを救済しようと試みた。

  あるいは、もう少し遠慮がちな神学者になると、事実を認めないわけにはいかないから、書いてあることは認めても、
  ただ、パウロ系の著者たちも、この時代全体の権力支配倫理に影響されて、
  つい、こういうものを書いてしまったのです、まあ古代人だからしょうがないじゃありませんか、
  それにパウロ系文書の著者たちも、こういうことも書いていますが、それはどうでもいい付け足しみたいなもので、
  他では本格的に神学的に正しいことをおっしゃっているのですから、有難く読みましょう、
  とて、やっぱり、何とかパウロ系著者たちを救済しようと試みつづけてきた。

  まさかねえ、これ、古代人だけの特色じゃありませんよ
  今の日本でも、この種の説教が大好きな奴は大勢いる。 もちろん日本だけではない。
  逆に、同じ古代人でも、新約の他の著者たちの中で、こんなえげつない説教を記している著者は一人もいませんよ。
  これは露骨、明白に、パウロ、パウロ系著者たちだけに見られる 「倫理」 説教のおぞましい特色なのだ。

  しかし、上述のように、確かに、これを自分の書く文書全体の中心に据え、これをほとんど唯一の主題としているのは、
  第1ペテロだけである。
  それだけですでに、この文書がどれほどおぞましい文書であるか、おわかりになりましょう。

  いや、お恥ずかしい話、私も、今回の 「訳と註」 の作業をやるまでは、
  第1ペテロはパウロ系著者の中でも、「三従の教え」 をやたらと有難がって書きつのっている、
  という事実までは知っていましたが、
  これがこの文書全体を貫く主題だ、というところまでは、気がついていなかった。

  それが、「訳と註」 を書いていて、冒頭の 「イエス・キリストの従順」という表現の の扱いように困り、
  いろいろ調べているうちに、ああ、なんだ、そういうことなんだ、と気がついた。
  従来の多くの訳書が、これを、「イエス・キリストに対する従順」 と訳している。 これ、ひどい誤訳。
  これは、前後の文法のつながりからしても、内容的にも、この著者の語法からしても、
  「イエス・キリスト自身が従順であったこと」 しか意味しない。

  そして、問題の要はその次である。
  この著者は、読者のキリスト信者たちに、「イエス・キリストが従順であったこと」 を 「模範」 として、
  あなた方も従順でありなさい、と説教しているのである。 そしてその 「従順」 の説教が全篇を貫いており、
  そしてその具体的中身が、かの 「三従の教え」 なのである!
  (このつながりについて、細かくは、第1ペテロの註のすべてをお読みいただきたし。ここではいちいち論証しない)
 
  これは許し難い説教ではないか。
  イエスという男が、ユダヤ教宗教権力の支配者と、ローマ帝国の代官によって、十字架にかけられ、殺された。
  その出来事を、この著者は、何と、「イエス・キリストの従順」 と呼んだ!
  イエス・キリストは従順だったのだから、あなた方はおとなしくローマ帝国に対して従順でいなさい、
  だからまた、あなた方奴隷や使用人は、雇用主に対して絶対に従順でいなさい、
  だからまた、あなた方のうち女は、男に対して絶対に従順でいなさい、
  だからまた、あなた方はみなローマ帝国に対して絶対服従しなさい、
  という説教に利用しようというのだから、これは、こればかりは、何としても許し難い。
  これこそ、 おぞましい宗教的たぶらかし以外の何ものでもない。
  これは、何としても許し難いのだ!

  第1ペテロという文書は、ぴんからきりまで、こういう代物でしかない。 ほかのことは書いてない!
  そういう事実を、正直に、認識しようではないか。

  そしてこれは、残念ながら、キリスト教史上突如として出現した突然変異ではない。
  以後ずっと、キリスト教史を貫いて、第1ペテロ的キリスト説教は持続していく。
  ここに現れた一つの黒い汚点が、以後だんだんと肥大し、キリスト教史を黒く覆っていく。

  もちろん、キリスト教史はそれだけではない。
  キリスト教をそのように利用しようとした力に対して、それを批判し、抵抗し、
  まっとうな人間理解を支えようとした積極的な力も、同じくキリスト教史の中で生き生きと息づいていた。 今でも。

  しかし、だからとて、こういう代物が存在した、という事実から眼をそむけてはいけない。
  そういう次第で、読者の皆さん、面白くはないでしょうが、こういうものが存在した、という事実を
  一度は、確認しておいて下さいますように。

  念のため、第1ペテロはローマ帝国によるキリスト教弾圧の時期に書かれた、
  その弾圧に耐えるようにと、信者たちに呼びかけた文書だ、という 「学説」 が長いことささやかれてきた。
  これは、まっ赤な嘘である。 そんなこと、この文書のどこにも、片鱗だに、出て来ない。 嘘の学説はいけませんよ。
  (これについても、正確なところは、「解説」 と 「註」 をお読みいただきたし)。

  もう一つ、たいした問題ではないが、第1ペテロには、最初期のキリスト教会が形成した 「信仰告白文」
  つまり、洗礼式の時などに信者に唱えさせたものだが、その 「伝承」 がそのまま記されている、
  従って、最初期のキリスト教についての貴重な資料である、という 「学説」。
  これまたまったくの嘘である! 何の根拠もない (これまた詳しくは多くの 「註」 を読まれたし)

  この種の 「学説」 に惑わされず、はっきりとこの文書に書かれていることを、正直に読もうではないか。

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